先生、医学的にはどう思う?

2006年8月「e-resident」掲載

―スポーツの意義

日本のスポーツが強くなることは、我が国にとってとても大事なことだと思います。経済効果云々は私にはよくわからないけれど、スポーツが世の中を良くすることは間違いない。ところで、皆さん、スポーツ振興基本計画というのをご存知ですか?これはスポーツ振興法の規定に基づき平成12年に10年計画として策定されたものです。

私が現在勤務している国立スポーツ科学センター(JISS)も、スポーツ振興基本計画に基づき、国際競技力向上のための中核的役割を担うために平成13年に設立されました。また、これに基づき、平成19年度中には、JISSに隣接して、ナショナルトレーニングセンターが完成する予定です(平成21年5月より「味の素ナショナルトレーニングセンター)。興味のある方はじっくり読んでいただくこととして、このスポーツ振興基本計画では、はじめに「スポーツの意義」を唱えています。「スポーツは、人生をより豊かにし、充実したものとするとともに、人間の身体的・精神的な欲求にこたえる世界共通の人類の文化の一つである。心身の両面に影響を与える文化としてのスポーツは、明るく豊かで活力に満ちた社会の形成や個々人の心身の健全な発達に必要不可欠なものであり、人々が生涯にわたってスポーツに親しむことは、極めて大きな意義を有している・・・」と続きます。具体的には、「青少年の健全育成、コミュニケーション能力の育成」「心身の健康保持の増進」「スポーツ振興による経済効果、医療費の削減」「地域社会の再生、連帯感」「世界共通の文化として国際親善や友好」などが書かれています。

まあ、これ以上書くと、ほとんどお役人の答弁のようになってしまうので、このくらいにしておきますが、素直に読むと「なかなかいいことが書かれているなあ」と感じます。

では、日本のスポーツを強くするためにどうしたらよいか。一言で言うと「日本が強くなるためのシステムづくり」だと思います。日本がいきなり貧困になったり徴兵制をひくわけにはいかないけれど、「スポーツを始めるきっかけ作り」「強くなるための支援体制」「選手を辞めたあともきちんと食べてゆける仕組み」などなど、選手が常に強い「やる気」をもって競技生活を送るための体制を作ってやらなければいけないと思います。JISSにいると、日本のオリンピック選手たちがいかに貧乏かがよくわかります。なんとかしてあげなくちゃね。

―名監督も悩む

今回は「ドクター、医学的にはどう思う」の話をしましょう。実はこの言葉、今までに2回聞いたことがあります。

最初はアトランタオリンピックの選手村で、開会式の前日。私は野球チームのドクターとして帯同していました。この時の全日本野球チームは全員アマチュアでしたが、今思えば、相当豪華な顔ぶれ。ホワイトソックスの井口、ソフトバンクの松中、阪神の今岡、中日の福留、オリックスの谷など現在プロで活躍している選手がたくさんいました。監督は川島勝司監督、アマチュア野球界の名将です。その監督が、選手たちをオリンピックの開会式に出させるかどうかで悩んでいました。オリンピックの開会式は、選手たちのコンディションを考えると相当問題があります。アトラクションの間は2時間ほど開会式場の近くで待たされ、それから入場行進、そのあとも会場内で式が終わるまで立ちっぱなし。終了後も、選手、役員全員が一斉に選手村に戻るので、なかなかバスにも乗れず…。アトランタオリンピックのときは夕方の5時ごろに選手村を出て、開会式を終えて選手村に戻ったのは明け方の4時でした。この時の野球チームは開会式の翌日のナイターでオランダとの初戦が予定されていました。監督としては、「選手の肉体的コンディションを考えると開会式に出させたくないが、オリンピックの雰囲気を味あわせることは逆に精神的にはプラスになるかもしれない。どうしよう」ということだったのでしょう。そして、悩んだ挙句私に、「ドクター、医学的にはどう思う?」と聞いたのです。私は、「医学的にどうかの問題ではありません。監督が決めてください」と答えました。川島監督の迷った姿を見たのは初めてでした。

次は、2000年のシドニーオリンピック、ソフトボールのアメリカとの決勝戦が始まる3時間前。日本チームは、予選で宿敵アメリカを倒して全勝で決勝トーナメントに進出、準決勝でオーストラリアを撃破し、悲願の金メダルまであと一試合、監督はあの宇津木妙子監督。いつもは試合前、サブグランドでのアップ前に宇津木監督からスタートメンバーが選手に告げられていました。しかし、決勝戦の日だけは、宇津木監督は野手のオーダーを告げたあと、「先発ピッチャーは30分後に発表する」と言ったのです。いつもと違う、と私は感じました。そのあと、練習中に、私に近づいてきた宇津木監督は「先生、先発、増渕か高山か、医学的にはどう思う?」と聞いたのです。私は、「医学的も何もないです。それは監督が決めてください」と答えました。結局増渕選手が先発しましたが、その試合前の迷いが、試合中まで続きました。好投した増渕選手はたった1本のヒットで同点に追いつかれ高山選手に交代、延長戦に突入し、降りしきる雨の中サヨナラ負けで金メダルを逃しました。宇津木監督自身はあとでこのように語っています。「1点を先行したあと高山選手に交代すると決めていた。しかし、どういうわけか、それができなかった。悔やんでも悔やみきれない」。

普段はそんな「迷う姿」など見たこともない二人の大監督。それだけ、オリンピックの舞台というのは大変なものなのでしょう。お二人とも、本当に医学的根拠を聞きたかったとはとても思えません。「誰かに何かしゃべりたかった」のだと思います。そんな迷った姿を選手たちに見せるわけにいかない。野球界やソフトボール界とは大して関係のない私だからこそ聞いたに違いありません。私の答えは、二つとも同じものでしたが、もちろんドクターとして「医学的にはこう思う」と語らなければいけないときもあります。監督との信頼関係があったからこそ、監督の質問の意味を即座に理解し、「それは監督が迷わず決めるべきだ」と答える事ができたと思っています。お二人とは、いまでも年に数回はお会いしていますが、必ずこの話になります。

スポーツドクターっていろいろな経験ができて楽しいです。