ソフトボール・斎藤監督との「声出し作戦」の思い出

2009年10月「e-resident」掲載~ソフトボールの斎藤春香監督とトークショー

長野のオリンピックスタジアムでソフトボールの斎藤春香監督とトークショーをしてきました。ご存じ、北京オリンピックで見事金メダルを獲得した、「世界一」の監督さんです。

米国との決勝戦、上野投手の力投、宇津木前監督の絶叫、わたしは野球日本代表チームのドクターとして帯同していたので、北京の宿舎で選手たちとテレビ観戦していました。ソフトボール選手たちの姿を見て、「よし、次はおれたちも」と思いました。あれからちょうど1年、あっという間です。

斉藤監督とはもう長い付き合いになります。彼女はアトランタ、シドニー、アテネと3回のオリンピックに選手として出場しました。わたしも、シドニー、アテネとソフトボールのチームドクターとして一緒にいましたから、気心は知れています。青森県弘前市の出身で、いかにも東北人らしい、真面目で黙々と働くタイプです。

―ベンチで2人並んで大声を出す

特に思い出深いのは、シドニーオリンピックのとき、ベンチの中で2人並んでひたすら大きな声を出しまくった、いわゆる「声作戦」の思い出です。

シドニーオリンピックが開幕し、わたしは初戦の前にあの宇津木監督に呼ばれました。

「こまっちゃん、あんたベンチに入ってもらうことになったから。ベンチに入るからには、何をやればいいか分かっているのでしょうね」。

すなわち、「ベンチに入るからには、チームの一員として、何でもやりなさいよ。声もしっかり出しなさいよ」というわけです。命令通り、ベンチから大きな声を出していると、宇津木監督は、今度は選手たちに言います。

「お前らー、小松先生より声が小さいじゃあねえかー」

つまり、初めからそのつもりなのです。一体感が出ます。さすが宇津木監督です。

ソフトボールの場合、そもそも登録できる選手が少なく、守備についているときはベンチには数人しか残りません。斉藤監督は指名打者なので守備につきませんから、いつもベンチにいました。ですから、ピンチになると「先生、そろそろ声作戦いきますよ」との合図で、いつも2人並んで声を出していました。特に、予選で米国を破った試合のことはよく覚えています、毎回ピンチの連続でしたが、耐えて、耐えて、ついに米国との公式戦で初勝利を手にしました。

ソフトボールは球場が狭いので、ベンチの声が打者によく聞こえます。「頑張れー」、「大丈夫だぞー」、「ナイスピッチング」とひたすら大きな声を出し続けることによって、打者の集中力をかき乱すのです。斉藤監督の話によれば、その後の世界大会で米国がまったく同じ手段をとってきたそうです。米国の選手に話を聞くと、「シドニーであれをやられて本当に嫌だった」とのこと。声作戦はそれなりの効果があったようです。そう考えると、自分も一緒に戦えたような気がしてうれしくなります。

―頑張ってきたから世界一になれた

毎日を大切に、頑張ってきた思い出話や、斎藤監督がソフトボールを始めたきっかけ、北京オリンピックのこと、ソフトボールのオリンピック復活への思いなど、話は尽きず、あっという間の1時間でした。「初めから夢があってそれを追い続けたわけではない。一日一日を大切にして、人との出会いを大切にして、頑張ってやってきたから世界一になれた」という言葉が印象的でした。

トークショーが終わった後、持ってきたオリンピックのメダルを皆に触らせてくれて、子どもたちの求めに応じてサインを書き続ける斎藤監督、その姿を見てまた感じました。あんなに有名になっても「もっとソフトボールを普及させたい、子供たちに夢を持ち続けさせたい」と一生懸命なのです。サイン会の予定でもなかったのに、その時間は軽く30分を超えていました。

斎藤監督が、懸命に子どもたちと接してくれるのは、ソフトボールの普及や、オリンピックでソフトボールを復活させたいという気持ちだけではありません。ソフトボールが大好きで、スポーツが大好きで、自分がそれで素晴らしい経験ができて、いろいろなことを勉強できて、その楽しさをもっと皆に味わってもらいたいと実感しているからです。

東京に戻って、2人で一杯やりました。酒豪の斎藤監督に付き合って、わたしはほとんど泥酔状態でしたが、彼女はまったく乱れることなく、店でもサインの求めに笑顔で応じていました。オリンピックから外されてしまったソフトボールですが、いつか復活して、また斎藤監督と祝杯を挙げたいなあと強く思ったのでした。