月別アーカイブ: 2012年6月

陸前高田でボランティア、ポット苗で校庭を芝生いっぱいに

今日は陸前高田に行ってきました。

東日本大震災で被災した、岩手県陸前高田市の長部小学校の校庭に、ポット苗方式で芝生化しようというプロジェクトです。

日本サッカー協会の募集に家族で応募し、復興支援事業にボランティアとして協力してきました。

朝6時半に家を出て新幹線で一ノ関まで、そこからバスで11時ころに長部小学校の臨時校庭に到着しました。

この広場はボランティア団体、遠野まごころネットが整地して作り上げた広場です。

そこに、スコップで掘って芝生のポット苗を植えてきました。3か月後の9月には一面みどりの芝生の校庭になるのだそうです。

がんばりすぎて、手の皮がむけたり、腕も足も痛いけれど、やりがいのある3時間でした。

その後は、陸前高田のテレビで何度も映し出されたあの被災中心地へ、昨年11月にも訪れた場所です。

しかし、がれきは半年前とかわらなくつみあがっています。

復興の遅れを実感しました。

被災地の子供たちが、思いっきり走り回ってスポーツができる場所を早く作らなきゃあね、と半年前も大船渡・本増寺の木村さんとお話しました。

今日芝生を植えた校庭で、子供たちが思いっきり走り回る姿も想像しながら、緑いっぱいになったこの校庭をまた訪れよう、と誓って陸前高田を後にしたのでした。

もうすぐ北京オリンピック

2008年8月「e-resident」掲載~カナダバンクーバー、サレー・「女子ソフトボールカナダカップ」

―北京オリンピックまであとわずか

本当に4年間はあっという間です。

7月は、女子ソフトボールに帯同して、カナダに行ってきました。バンクーバーの近くのサレーで開催された「カナダカップ」に、オリンピック前の最終調整を兼ねて全日本チームが参加しました。この大会は毎年開催されるのですが、世界中からナショナルチームやクラブチームが出場します。今回は、オーストラリア、カナダ、チェコなどのナショナルチームが来ていました。

選手たちはみな体調もよく、爽やかな気候の中で、のびのびとプレーしていました。アテネオリンピックでは、オーストラリアに二回敗れ、惜しくも銅メダルでしたが、今大会では、そのアーストラリアを二回とも退け、見事優勝を飾りました。

 

残念ながらロンドンではオリンピック競技から外されてしまったソフトボールですが、今回北京では斉藤春香監督が指揮をとります。

斉藤監督は、アトランタ、シドニー、アテネと3回のオリンピックに選手として出場しました。アトランタオリンピックではホームラン王にも輝いています。青森県の出身ですが、いかにも東北人らしい、まじめで、黙々と仕事をするタイプです。

もう長い付き合いになりますが、特に思い出深いのは、シドニーオリンピックの時、ベンチ前で二人並んでひたすら大きな声を出しまくったこと、いわゆる、「声作戦」の思い出です。

「コマッチャン、あんた何のためにベンチに入るか解ってるんでしょうね」

シドニーオリンピックで宇津木監督にいわれました。「ベンチに入るからには、チームの一員として、何でもやりなさいよ。声もしっかり出しなさいよ。」というわけです。命令どおり、ベンチから大きな声を出していると、宇津木監督は、今度は選手たちに言います。

「お前らー、小松先生より声が小さいじゃあねえかー」

つまり、初めからそれを狙っているわけです。さすが宇津木監督です。

―声出し作戦

ソフトボールの場合、そもそも登録できる選手が少なく、守備についているときはベンチには数人しか残らないことになります。斉藤監督は指名打者なので守備につきません。ですから、「先生、そろそろ「声作戦」行きますよ」との合図で、いつも並んで声を出していました。

とくに、予選でアメリカを破った試合のことはよく覚えています、毎回ピンチの連続でしたが、耐えて耐えて、ついに公式戦対アメリカ初勝利を手にしました。

ソフトボールの場合、球場が狭いので、ベンチの声が打者によく聞こえます。「ガンバレー」「大丈夫だぞー」とひたすら大きな声を出し続けることによって、打者の集中力をかき乱すのです。斉藤監督の話によれば、その後の世界大会でアメリカがまったく同じことをやってきたそうです。アメリカの選手と話をしてみると、「シドニーであれをやられて本当に嫌だった」とのこと、「声作戦」はそれなりの効果があったようです。そう考えると、自分も少しはメダル獲得に貢献できたのかなあ、とうれしくなったりもします。

今回の遠征で一番感じたことは、「斉藤監督の存在感」でした。もともと優しい性格の監督が、時には厳しく叱り、時にはしゃべりかけづらい雰囲気も醸し出し、それでいて、普段通りの優しさも感じる。頃合いの良い存在感、距離感がとてもうまくチームをまとめているように思いました。

今度こそ、宿敵アメリカを破って、金メダルを手に帰ってきてくれるような気がします。

さて、そのカナダカップが開催されたサレーですが、「ソフトボールシティ」ともよばれ、みんなソフトボールが大好きで、親しんでいます。地元のカナダチームが残れなかった決勝戦でも、あふれんばかりの観客が集まり、勝ち負けに関係なく素晴らしいプレーに拍手を送ります。ボランティアの方や、ホストファミリーの人たちもとても優しくしてくれました。会場には、4面のソフトボール場があり、国際大会と並行して、障害者のソフトボール大会も行われていましたが、本当に「みんながソフトボールを楽しんでいる」という雰囲気でした。いつも、「スポーツに親しむためのしくみ作り」が大事だ、と叫んでいる私にとっても、大変参考になる大会でした。

先日は、北京オリンピックの日本選手団結団式が行われ、いよいよ本番モードです。わたしは、今回は星野ジャパンのチームドクターとして、日本での合宿から大会期期間すべて帯同する予定です。みんなが、最高のコンディションで試合に臨み、力を発揮できるように、力を尽くしてきたいと思います。

スポーツと腹痛

2008年7月「e-resident」掲載~NHK「解体新ショー

―解体新ショーに出演

先日、NHKの「解体新ショー」の収録に行ってきました。解体新ショーは、カラダの数々の謎を科学的に解き明かす番組です。出演するお笑い芸人の方たちのトークや演技も楽しく、いつも「なるほど、そーなんだ」と感心しながら見ていましたが、今回は私がお手伝いすることになりました。

私に与えられたテーマは、「走るとどうしておなかが痛くなるの?」です。

おそらく誰もが経験のある、走るとおこる脇腹の痛み、これを「side stitch」といいますが、この原因に関しては諸説があるもののよくわかってはいませんでした。運動に伴う腸管の虚血、胃内容物の排泄遅延、腸管がぶつかり合うことによる機械的な刺激、呼吸筋の血流や酸素供給不足、腹腔内圧の上昇、腸管内ガスの結腸彎曲部への移動、胆道内圧の上昇などが原因と推測されていますが、おそらくそれら複数の因子がかかわりあっているのだろうと思われます。疫学的には、「運動を休むと消失する」「同じ運動でもランニングに多く、自転車や水泳などでは少ない」「子供のころにはよく起きるが、大人になるとなくなる」などの事実が明らかになっています。

今回の「解体新ショー」では、いくつかの実験を行い、その原因の一つが明らかになりました。 滋賀医科大学の谷徹教授が開放式MRIを用いて、走ることにより結腸の脾湾曲部や肝湾曲部に大量のガスがたまることをリアルタイムに確認してくださったのです。私も、ランニングで小腸や大腸が大きく揺さぶられることを確かめました。運動時には腸の蠕動運動が抑制されますから、揺さぶられることとあいまって、結腸内に分散していたガスが湾曲部に集まることが推測できます。それが痛みの原因というわけです。  確かにそう考えると、「運動を休むと消失する」(蠕動運動の再開によってガスが分散)「同じ運動でもランニングに多く、自転車や水泳などでは少ない」(腸が揺さぶられることと関係する)「子供のころにはよく起きるが、大人になるとなくなる」(自律神経機能の未発達な子供で起こりやすい)、という疫学的事実の理由も説明できます。番組でも、ペナルティのお二人が模型を使って上手にそこのところを説明してくれました。打ち合わせでちょっと話を聞いただけで、すぐにポイントをつかんで表現しちゃうんだからスゴイ。さすがプロ、と思いました。僕にはそこらへんの修行がまだ必要だなぁ。

―運動時に起こる腹痛

これはトップアスリートでもしばしば起こり、いろいろな相談をうけることがあります。今までの運動時の消化器症状を検討した報告では、胸やけ・吐き気・嘔吐などの上部消化管症状が10~30%程度、下痢・排便衝動・下血などの下部消化器症状が10~40%程度見られるとされています。時々、マラソンレース中にコースを外れて民家でトイレを済ませてからコースに戻って、それでも優勝しちゃったりする選手がいますが、これもまさしくマラソン時に起こる腹部症状です。  このような腹部症状で悩む選手たちは、各々が独自な工夫をしています。食事の内容や食べる時間など、それぞれの選手の消化機能や運動の質が違うので、一概に指導はできません。いろいろ試しながら克服しているといったところでしょうか。時には、整腸剤や制酸剤、抗コリン剤の力を借りることもあります。 「走るとどうしておなかが痛くなるか」なんて、運動やめればよくなっちゃうわけだし、命にかかわるわけでもないし、医学的には大した問題じゃあないのかもしれないけれど、スポーツを普及させるには大事なテーマかもしれません。走るたびにおなかが痛くなってしまえば、みんな走ることをやめてしまいます。今回はきちんとした研究プロトコールも存在しない実験だったけれど、きちんとした研究を行う価値はあるかもしれないなあ、と感じました。  これだけ「健康スポーツ」が叫ばれて、国民の運動不足が指摘されているわけだから、「どうしたらみんながスポーツを好きになるのか、体を動かすことが億劫じゃあなくなるのか」というテーマはきっと大事ですね。  まだまだやらなければいけないテーマがたくさんあります。  それにしても、共演した国分太一さん、劇団ひとりさん、ペナルティーのお二人、それから久保田祐佳アナ、みんな爽やかで、礼儀正しくて、素敵な人たちだったなあ


「人間ドック」を経験

2008年6月「e-resident」掲載~人間ドック」を経験

―覆面調査?

今日、生まれて初めて「人間ドック」を経験してきました。

大学の助手になったのが11年前、それ以降はずーっと正式な職員だったのですから、法律的には定期的な健康診断を受けなければいけなかったはずですが、大学病院時代はほとんど健康診断を受けたことがありませんでした。3年前、現在の勤務地である国立スポーツ科学センターに移ってからは、「必ず健康診断を受けなさい」というお達しがあり、今年は、「健康診断の代わりに人間ドックを受診した場合でも、職場から2万円近い補助が出る」、ということを初めて知り、「それじゃあどんなものか一度受けてみよう」と人間ドックの申し込みをしたのでした。

ちょうど先週、札幌で日本整形外科学会が開催され、そのシンポジウムで「トップアスリートに対する内科的メディカルチェック」と題して、「競技力を向上させるための魅力的なメディカルチェック、攻めのメディカルチェック」という話をしてきたばかりでした。ですから、人間ドックがどれくらい魅力的に行われるのか、そうじゃあないのか、ちょっと偵察してみよう、とも思いました。医者であることを隠して、ミシュランと同じ、いわゆる「覆面捜査」です。

駅から徒歩10分で到着したそこは、7階建てのビル全体が健診センターになっていました。10時からの予約だったのですが、15分前に到着し、受付でオプションの血液検査と胸部のCT検査を予約しました。ロッカールームで検査着に着替えた後、とても奇麗な、ホテルのような待合室でしばらく待っていると名前を呼ばれ、まず初めに血液検査、そして身長体重測定、体脂肪測定、心電図、呼吸機能検査と続きます。

待合室で待つ人たちも、平均年齢は45歳といったところでしょうか、病院とはまったく雰囲気が違います。

次に呼ばれたのが腹部超音波検査、私が行うような「三こすり半エコー」とは違い、じっくり時間をかけてやってくれました。ただ、あまり時間がかかるので、「何か悪いところでもあるのかなあ」とちょっと不安な気持ちにもなります。終了後に技師さんに、「何か問題ありますか?」と聞いたところ、「結果は後でドクターから説明があります」と当たり前の答え。「心配なものはないと思いますが詳しくはドクターに聞いてくださいね」くらいに言ってもらえれば、あまり不安にならないのになあ。まあ、患者さんの気持ちがよくわかります。

その次はドクターによる診察、あらかじめ記入した問診表を見ながら、先生が問診します。高脂血症のための継続的な運動療法を行っていますか?の問いに、「ハイ」と記入しておいたのですが、「3年前の健康診断で中性脂肪が高かったものですから、定期的に運動を行っています」と言うと、「それは医師の指示で運動療法を行っていますか。という意味なんですよねえ」といいながら、「ハイ」を消されてしまいました。うーん、おれの指示でやっているわけだから、医者の指示ということにならないのか?まあいいか。

最後に、噂のメタボ診察です。「そこに立っておなかを出してください」といわれ、巻き尺で腹囲を測ります。先生は、「85センチ」といったん言ったあと、「84.6センチですね」と言いなおしました。ご存じのとおり85センチ以上あるかないかがメタボリックシンドロームの運命の分かれ道。85センチ以上だといろいろ説明しなきゃいけないからめんどうくさいと思ったのか、それとも私にメタボの烙印を押すのが申し訳ないと思ったのか、そこら辺は定かではありませんが、何とか私はメタボリックシンドロームからまぬがれたのでした

その後は、聴力検査、視力検査、眼底検査と続き、レントゲン室に移動して胸部CT検査と上部消化管検査(バリウム検査)を行いました。げっぷを我慢しながら頭が上がったり下がったり、ぐるぐる回されて、「これなら僕がやる内視鏡検査の方がよっぽど楽だな」と感じましたが、「バリウム検査に命をかけてる」といった感じの技師さんで、とても一生懸命やってくれました。

これですべて終了です。時計を見るとまだ11時20分、なんと1時間20分ですべての検査が終わってしまいました。1日がかりだと思っていたのでびっくり。食事を済ませて12時30分から結果説明がありました。一部の血液検査と胸部CT以外は、すべて結果がもう出ていて、これもまたびっくり。腹囲はちゃんと84.6センチと記載され、メタボリックシンドロームは非該当となってました。腹囲をおまけしてくれた先生は言いました。

「大きな問題はなさそうですねえ。ただ、肝臓に血管腫がありました。まあこれは血の塊みたいなもんですから心配ありません(ふーん、そう説明するのか)。念のため6ヶ月後に再検査してくださいね。それでは今日はお疲れ様でした」

着替えを済ませて、料金を払いました。そういえば、係りの人は私のことを「お客様」と呼んでたなあ。たしかに、患者ではないからなあ。でも、何となく違和感もある。まあいいか。

―覆面調査報告

「覆面捜査」の結果わかったのは、病気ではないと思っている人間にとっては、病気を発見してもらうことよりも、短時間で、不快感なく終了することが、「魅力ある人間ドック」なのだと感じた事でした。バリウム検査だって、見落としなくダブルチェックしていたら2時間で結果まで出るわけがないとも思うけれど、「異常なくてよかった」と思いたい人間にとってはそんなこと許せるような気もする。

まあいずれにせよ、「大した問題はなさそうですねえ」と言われ、なんだかとてもいい気分になって、帰り道、通りすがりのとんかつ屋で「カツカレーの大盛り」を注文してしまったのでした。

間違いなく腹囲が2センチ増えた私は、それでも、来年の健診までには腹囲が85センチ以内になるよう努力しようとも思ったのですから、85センチという数字も数値目標としては悪くはないなあ、と感じたのでした。

オリンピックの名言

2008年5月「e-resident」掲載~プロ野球のドーピング検査

―有森裕子さんとの思い出

今回はプロ野球のドーピング検査に向かう新幹線の中で書いています。

先ほどまで読んでいた週刊誌の写真特集で、「五輪の記憶―今だから話せる秘話満載!-」という特別企画がありました。企画の中では、名選手が生んだ「オリンピックでの名言」もいくつか載っていました。有森裕子さんの「初めて自分で自分をほめたいと思った」、千葉すずさんの「楽しむつもりで泳ぎました」などなどです。どれもオリンピック期間中での言葉ですから、選手村の中にいた私は、それらの言葉が、日本でどのように報道されたかは日本に戻ったあとで知りました。とくに、アトランタ、シドニーまではインターネットも大して普及していませんでしたから、おもな情報源は1日遅れで見ることができる日本の新聞くらいでした。オリンピックの選手村ではユニットごとにテレビのあるリビングがあるのですが、そこでは各競技会場の画面やその国の番組が流れていて、日本の放送は見ることができないのです。アテネオリンピックの時も、リビングで何の解説もない体操会場の画面を眺めながら、「どうやら日本男子は金メダルを取ったみたいだぞ」てな感じでした。スポーツ番組というのは、アナウンスや解説がとても大事、というか良くも悪くもそれに頼っている、ということを実感できます。

さて、私が初めて野球のチームドクターとして参加したアトランタオリンピック、日本選手団が帰国の途に就く際、選手村の宿舎の前で有森さんと話したことを思い出しました。

見事な銅メダル、しかも2大会連続のメダルを手にし、「初めて自分で自分をほめたいと思った」と語った有森さんはさわやかな顔で私に言いました。

「自分のために、そして楽しんで走らなきゃ」

有森さんだって、オリンピックを楽しもうと思ってレースに臨んだのです。「楽しむとは何事だ」と非難された千葉すずさんと変わりありません。

―心の余裕

どうして有森さんとこんな話になったかというと、私自身がはじめてのオリンピック帯同、選手村生活で、「選手たちが日の丸、国民の期待を背負い、4年に一度の大会で戦うというのはこんなに大変なことなのか」と肌で感じたからです。

野球チームは結果的には銀メダルを獲得しましたが、予選リーグで3連敗し、もうこれ以上負けられないという状況になりました。みんなの顔から笑顔は消え、選手同士や選手と首脳陣がギクシャクしたりもしました。とても、「楽しむ」というような状況ではなくなりました。それぞれにたまった「愚痴」を聞くために、選手たちや監督コーチの部屋を回るのが私の仕事でした。そんな中、エースである杉浦正則選手の気迫あふれた好投をきっかけに、チームの雰囲気ががらりと変わり、準決勝、決勝では、野球の本場アメリカで、「試合を楽しむ」雰囲気がありました。決勝ではキューバに惜しくも敗れましたが、皆が十分に力を出し切った満足感がありました。

力を出し切るには、平常心や試合を楽しむような心の余裕が絶対に必要です。もちろん適度な緊張感も必要なのでしょうが、プレッシャーで押しつぶされて普段の力を発揮できなかった選手たちもたくさん知っています。ですから、千葉すずさんは、「楽しむくらいの心の余裕をもって試合に臨みたい。いろいろとプレッシャーのかかることはなるべく言わないでくださいね」くらいの気持ちだったのだと思います。私の知る限り、ほとんどの選手が日本を代表してここにきているという強い責任感を持ち、また出たくても来ることができなかったライバルたちや、世話になった家族や恩師、友人のためにも頑張らなければいけない、という思いで戦っています。ですから、よく勝利後のインタビューで選手たちの口から出る、「支えてくれた人たちみんなに感謝したい」という言葉は選手たちの正直なそのままの気持ちであって、決して気を使って発した言葉ではないのです。アルベールビルオリンピックの時、金メダルを期待されながら銀メダルに終わった伊藤みどり選手の、「申し訳ありませんでした」という言葉も、当時は「そんなこと言う必要ないよ。立派な銀メダルじゃあないか」と思ったけれども、今思えば、支えてくれた人たちの期待に添えなかったという思いがただ正直な言葉で出たのだと思います。

そもそも、「楽しい」って思えることがなきゃあ、全てを捨てて競技に打ち込むなんてことやってられないですよね。そう思うと、われわれ医者もたぶん同じです。真夜中に起こされても、家族が犠牲になっても、「楽しい」からやっていけるのです。だから、「医療崩壊」の最大の要因も「楽しい」と思えることが少なくなっちゃったからでしょう。医療の世界が、また「楽しい」と思える心の余裕を取り戻せるかが一番のポイントだと思います。

皆さんもぜひ医者を楽しんでください。楽しむことは決して医学にまじめに取り組まないことではないはずです。

僕はいつでも楽しいですよ。


お母さんからの手紙

2008年4月「e-resident」掲載

―一通の手紙

先週、1通の手紙が私の職場JISSに届きました。

「桜だよりも聞かれる今日この頃です・・」で始まるその手紙には、最愛の娘さんが力尽きてお亡くなりになったことが記されていました。

Hさんは膵がんでした。

私がまだ東大病院にいた平成16年の暮に彼女は入院し、検査の結果、肝臓にも大小の転移をたくさん認めるステージ4Bの膵がんと診断されました。

かなり進行した膵がんであることを告知したあの日のことは今でもはっきり覚えています。涙も見せずに気丈にというか淡々と私の話を聞き、「あとどのくらい生きられますか」と彼女は聞きました。私はわれわれの経験した200人を超える膵臓がんの患者さんの生存曲線のデータを示し、「ただこれはあくまでデータですから、ひとりひとりがどれくらい頑張れるかはわからない。やれるだけの治療をやるだけです」と答えました。

彼女は41歳でした。

抗がん剤の投与を開始し退院したHさんは外来で治療を続けることになりましたが、すぐに私は消化器を離れスポーツの世界に移りました。最後の外来の時に彼女から渡された手紙には、「がんの告知という、つらい役割を引き受けてくれた小松先生に感謝しています」と書かれていました。一番つらいのは本人なのに。

それから、3年近く経った昨年の10月、HさんからJISSに電話がありました。どうやら、私がJISSにいることを知り、というか、移動した直後から知っていて、この連載エッセイも毎月読んでいたようです。「治療がなかなかうまくゆかなくなってきた、相談に乗ってくれませんか」とのことでしたので、「医学的な質問には答えられないけれど、それでもよかったら」と、訪ねてきた彼女と1時間ほど話をしました。消化器・胆膵のことは後を託した後輩たちに任せてきたので本来は会うべきではない、とも思いましたが、彼女に「治る可能性が極めて少ないがんである」ことだけを話して無責任にも大学を離れた私にしてみれば、「申し訳ない」という気持ちもありました。

上品な雰囲気、落ち着いたしゃべり方、3年前のままです。

「私が3年後に生きてるって思ってなかったですよね」

「私、まだまだ頑張りますよ」

確かに、3年後に元気なHさんに会えるとは思ってもいませんでした。1年頑張れればいい方だと思ってた。正直にそう答えました。がんの治療をしながら、副作用とも闘いながら、それでも前向きに生きている。海外にも行ったり、1か月前には屋久島に行ってきた、と私に話しました。

その後どうしてるだろう、と気にはなっていたのですが、3月の初めにK病院のO先生から電話がありました。「先生、Hさんをご存知ですよね。今うちの病院に入院しているんですが状態があまり良くありません。本人が電話でいいから小松先生と話がしたいと言っているんですが・・・」

その日の夜、仕事の帰りに彼女を訪ねました。

だいぶやせたけれど、元気な声で「まだまだ頑張りますからね」と言う彼女と握手をして病室を出ました。

お母さんからの手紙にはその4日後に亡くなったことが書かれていました。

―医者のやりがい

医者をやっていると誰にでも「心に残る患者さん」がいると思います。私にも顔や名前がすぐにうかんでくる患者さんたちがたくさんいます。でも、その多くが自分の力や医学の力が及ばなかった人ばかりです。治療がうまくいって元気で退院していった人たちもたくさんいるはずなのに、なぜか亡くなっていった人や場面ばかり頭に浮かんでしまいます。

私と同じ年の子供がいたSさんは、膵がんの告知した後、「先生なら自分が3年後にはこの世にいないことを子供に話しますか」と聞きました。

クリスチャンであった胆嚢がんのMさんはすべてを受け入れて、最期までにこにこしていました。

無口な板前のKさんはつらい治療を続けながら、一度も病気のことを私に聞きませんでした。

みんな亡くなりました。

そのたびに、「医学の進歩に貢献しなくちゃ、がんを治る病気にしなくちゃ」と少なからず感じるのです。実際、身内の死を間近に見て医者を志した人もたくさんいると思いますが、そういう気持ちは医者である限りは持ち続けなければいけないものでしょう。病室で患者さんの手を握ってやることが医者の仕事ではないかもしれないけれど、「患者さんのために」という気持ちを持ち続けるにはそれも必要なことだと思う。

スポーツ医学の世界も楽しくて、魅力的な世界だけれど、普通の医者も楽しくてやりがいがあるよなあ、とあらためて感じたのでした。

スポーツ選手と喘息

2008年3月「e-resident」掲載~北京オリンピック候補選手たちの派遣前メディカルチェック

―日本は遅れている

8月の北京オリンピックに向けて、候補選手たちの派遣前メディカルチェックが始まりました。メディカルチェックの内容は、内科・整形外科・歯科の診察、女性選手に対する婦人科的な問題点の問診、血液検査、心電図、胸部レントゲン、心エコー、呼吸機能検査などです。選手たちが最高のコンディションで最高のパフォーマンスを発揮できるように医学的な問題点をチェックして、本人や現場にフィードバックします。

ご存じのように北京オリンピックに関しては、食事や水、大気汚染などさまざまな点を懸念する声も聞かれます。しかし、中国も国の威信をかけて行う大行事なのですから、最終的にはしっかりとした大会運営が行われるはずだと確信しています。ただ、医学的に言うと、北京の大気汚染はちょっと心配です。スケートの清水宏保選手が気管支喘息であることは有名で、本人も公表して喘息の正しい治療の普及に一役買ってくれていますが、もちろん夏季競技で活躍する選手の中にも喘息の選手がいます。それらの選手が、万全のコンディションでオリンピックに臨めるように手を尽くさなければいけません。

この、「アスリートと喘息」に関しては、最近のわれわれの研究で色々なことがわかってきました。

約3年前、国立スポーツ科学センター(JISS)に赴任した当初、トップアスリートを対象にした外来で何人かの気管支喘息の選手を診ました。喘息の診察なんて20年ぶりで、研修医時代以来です。「たしかあの頃は夜間に発作で訪れる子供たちにまずベネトリンとビソルボンを混ぜて吸入させて、よくならなければ点滴をしたなあ」、まあその程度の知識でしたから、さすがにちょっと勉強しました。そして、お恥ずかしながらその時はじめて、気管支喘息の標準的治療は「ステロイド吸入薬による長期管理」であることを知りました。呼吸器の専門の先生の話だと、日本はこの標準的な治療に関してまだまだ遅れているのだそうです。

―アスリートの喘息研究

喘息の選手たちを診ながら、「トップアスリートの喘息罹患率はどれくらいなのだろう」、「選手たちはきちんとした治療を受けているのだろうか」、当然そのような疑問が降ってわき、さっそく2005年度の1年間にJISSでメディカルチェックを行った2486人のトップアスリートのカルテをすべて調べてみました。その結果、2486人のうち42人、全体の1.7%のアスリートが気管支喘息と診断されていることがわかりました。さらに驚くべきことに、その42人のうち、吸入ステロイドによる長期管理を受けていた選手はわずか2人だったのです。「喘息がコントロールされなければよいパフォーマンスが出るはずのないトップアスリートたちが、今までまともな治療を受けていなかった」という実態が浮かび上がりました。これには、選手たちの練習や海外遠征などのスケジュールが過密で定期的に通院できないことや、主治医がいないこと、などの理由もありますが、なにより、スポーツ医学の世界自体が喘息の知識に乏しく、その重要性に気が付いていなかったということなのかもしれません。「何とかしなきゃ」と思うと同時に、これだけしっかり診断・治療されていない選手たちが多いということは、もしかするともっとたくさん喘息のアスリートがいるかもしれない、と感じました。

そこで、次に行ったことが、いままであまりやっていなかったスパイロメトリーをメディカルチェックの際に積極的に導入することでした。人手や機械の関係で全選手には行えなかったのですが、気管支喘息と診断されている選手だけでなく、「小児喘息だったけれど今は治って全く症状がないという選手」や「詳しく問診するとどうも喘息が疑われる選手」に対して、スパイロメトリーを行いました。すると、またまた新しい発見が。

これらの「喘息と診断されていない選手」でスパイロメトリーを行った69人のうち13人が、「1秒量、1秒率が低下し、さらにサルブタモールの吸入で1秒量が12%以上改善」すなわち、気道可逆性試験が陽性で客観的に気管支喘息と診断されたのです。今まで気づかれていなかった「かくれ喘息」の選手たちの存在が明らかになりました。積極的にスパイロメトリーを導入することにより、「少なく見積もってもトップアスリートの6%以上が喘息らしい」ということがわかってきたのです。昨年秋の日本臨床スポーツ医学会で発表しました。

ということで、これらの結果を踏まえ、北京での大気汚染も考慮して、今回の北京オリンピック派遣前チェックからは全員に「呼吸機能検査」を行っています。今後、トップアスリートの気管支喘息の現状がより明らかになるでしょう。

現在、呼吸器学会やアレルギー学会の先生方にもアドバイス、ご協力いただいて、選手たちが日本のどこにいてもしっかり喘息の診断や治療ができるしくみづくりを始めています。喘息の治療に用いる吸入ステロイド薬や吸入やベータ刺激薬はドーピング禁止物質です。ですから、使用するにはTUEというドーピング禁止薬物を使用するための申請書を提出しなければいけません。アンチドーピングの知識を全国の呼吸器の先生方に知っていただくことも大事です。「喘息の治療をすることで本当にパフォーマンスが向上するのか」といったことも明らかにしていかなければなりません。そしてこれらのことが、「日本が世界で強くなる」ことに少しでも貢献できたらいいなあ、と思います。

こんな風に、きっと、医学の世界では身近なところにもまだまだいろいろなネタが埋もれていますよ。もちろん、ただ単に興味本位だったり、論文を書くためだけのネタではなくて、「世の中のためになる、患者さんのためになるネタ」がね。

あの強い吉田選手が負けた

2008年2月「e-resident」掲載中国・太原、第8回レスリング女子ワールドカップ

―吉田選手の笑顔が消えた

1月19日、20日に第8回レスリング女子ワールドカップが、中国・山西省太原で開催されました。この大会は国同士が戦う団体戦です。日本、中国、アメリカ、ウクライナ、カザフスタン、カナダの6カ国が参加しました。日本チームは、吉田沙保里選手や伊調姉妹といった北京オリンピックへの出場が決定している選手たちも加わり、私はチームドクターとして約一週間帯同しました。

初戦でウクライナを破ったものの、2回戦で「119連勝」という連勝記録を更新中であった吉田選手がまさかの敗退を喫してしまいアメリカに敗れて決勝に進むことができませんでした。日本は銅メダルに終わりました。

しかし、「吉田選手が負ける姿」を目の前で見ることになるとは思ってもいませんでした。

第1ピリオド、第2ピリオドとも微妙な判定でした。二つとも仕掛けたタックルを返され、ビデオ判定の結果、相手のポイントとなってしまいました。反撃する時間もほとんどなく、そのまま終了のブザー、呆然と血の気の引いた顔でマットから降りてきた吉田選手は、そのまま私の目の前でずーっと伏して泣いていました。めったに見られないその姿を必死に捕らえようと集まるカメラマンたち。まだ日本の試合は続いているのに。

2日後に帰国しましたが、成田に到着しても、いつもの吉田選手の笑顔はありませんでした。今まで、負けて泣きじゃくるスポーツ選手たちはたくさん見てきたけれど、2晩寝ても元に戻らない選手と接したのは初めてでした。それだけ彼女にとっては、「勝ち続けて北京で金メダルを取る」ことが、大事な大きな目標だったのでしょう。私のように、しょっちゅう失敗したり、負けたりしている人間にとっては、「負けちまったものはしょうがない。つぎは頑張ろう」と、すぐに思えるのだけれども、負けたことない吉田選手にとっては、「オリンピックで負けたわけじゃないじゃないか」と気持ちを切り替えるのは大変なことだったのだと思います。

私は今まで何度くらい「しょうがないや」って納得してきたのだろう。相当たくさんだろうな。でも、よく考えると、吉田選手だってきっと今まで何度も「しょうがない」って感じたことはあったはずだから、「しょうがない」って思えなかったことのない私は、逆に言えばそれだけの大きな目標を持ったことがないのか? それとも、あったけれど楽天的すぎて忘れてしまったのか? わからなくなってきた。

―やりすぎないことも大切

医療の現場でも、「しょうがない」って考えることはありますよね。「病気になっちまったものはしょうがない」「がんになっちまったものはしょうがない」などなど、「しょうがない」ということが許されなくなったら、たぶん誰も医者をやれなくなってしまう。患者さんを前にしても「しょうがない、でも、そのあと最善を尽くそう。それしかないよ」という気持で治療するわけだけれど、必ずしも患者さんはそうは思えない。それを受け入れるのには、やっぱりある程度の時間が必要なことも多い。がんを告知したばかりの患者さんに向って、「しょうがないですよ」とは言えないものね。結局、「しょうがない」って思えるかどうかは、そのものの重要性とその人の立場に依るんだ。あたりまえのことだなあ。

今回も、女子レスリングに初めて帯同したトレーナーの楠原さんが、吉田選手が負けた当日、「先生、吉田にどう接すればいいでしょう?」と聞いてきました。私は、「いつもどおり、普通に接して、我々は淡々とすべき仕事をすればいいんだよ」と答えました。

メディカルスタッフとして、何とかしてあげなきゃ、とは思うけれど、一番大切なのはまず選手の気持ちを理解してやることで、選手から何かアプローチがあったら初めて動けばいい。特にスポーツの現場では、「やりすぎてかき乱さないこと」が大事です。大体こういうのはがんの告知とも同じで、時間や家族などが解決してくれます。

昨日、吉田選手の恩師である栄和人監督に電話したところ、「もう吉田は大丈夫だよ」とのことで一安心。レスリング協会のホームページでも、「多くの人から応援され、支えられていることを知った。この負けは北京オリンピックで金メダルを取るためと考えたい」とのコメントと共に、いつもの元気な吉田選手の写真が載っていました。よかった。一段と強くなって、北京では必ず金メダルを取ってくれるはずです。

 

今回も、またまた勉強になることだらけだったなあ。


宗リンズ

2008年1月「e-resident」掲載

―川崎宗則選手率いる野球チーム

先月号で書いた星野ジャパンの台湾でのオリンピック予選、無事にオリンピックの切符を獲得できて、本当にホッとしています。監督も選手もきっと「うれしい」というより、「ホッとした」というのが正直なところだと思います。

それにしても「絶対に負けられない試合」というのは、想像を絶するものでした。優勝した2年前のワールドベースボールクラッシックの時とは、チームの緊張感や雰囲気がまったく違いました。星野監督の「近過ぎず遠過ぎず」という存在感や言動はとても勉強になりましたし、宮本キャプテンもうまく力が抜けて、ベテランと若手をまとめていました。チームがギクシャクした感じはまったくありませんでした。

しかし、いつもお話するように「結果がすべて」の世界です。勝てたからこそ、「あれもこれもよかった」ということになりますが、負けていれば、同じことがマスコミ的には「敗因」にされてしまう。そのことをみんながわかっているから、勝てたことにホッとしているのです。自分の専門分野の面からいえば、やはり、「客観的な勝因や敗因の分析」が必要ですが、今回のチームには、そのような能力も備わっていたように思います。

いずれにせよ、勝てて本当によかった。

帰国後、忙しい合間を割いて先週は福岡に行ってきました。仕事ではなく、自分が野球に出場するためです。我々のチームの名前は、「宗リンズ」。そうです、ソフトバンクホークスの川崎宗則選手がオーナーで、さらに監督兼ピッチャーという軟式野球チームの試合。

川崎選手とは2002年11月にキューバで開催されたインターコンチネンタルカップからの付き合いです。この国際大会では成長が期待される若手プロ選手を中心にチームが編成されました。予選リーグで敗退してしまったため予定を早めて帰国した日、川崎選手がホテルのロビーで、何となくさびしそうにしていました。当時はまったく無名で、東京にもほとんど来たことがない川崎選手でしたから、どこに行けばいいかわからない、という感じでした。「飯食いに行こうか」と誘って、すし屋に行って、そのあと六本木に繰り出して盛り上がりました。まじめな話もしました。その後はご存じの大活躍で一躍スター選手に駆け上りましたが、無名時代からの付き合いということもあって、仲良くさせていただいています。年は離れていますが、爽やかで、礼儀正しい好青年で、なによりも決して驕ることなく真剣に野球に取り組む姿が私は大好きです。

―ナナバン、セカンド、コマツ

川崎選手は、ファンサービスも兼ねてシーズンオフに「宗リンズ」を結成します。チームの面子は川崎選手と仲の良い野球選手や元野球選手、トレーナーや道具係などの裏方さん、川崎選手が慈善事業で世話になっている会社の会長さんなど。その一員として私も加わらせていただいています。昨年の12月、「宗リンズ」はバレーボールチームを編成し、福岡の女子高のバレーボールチームと試合をしました。さすがに本チャンのバレー部は強くて惜しくも敗れました。そして今年は、宮崎県の東国原知事率いる、「そのまんまーず」と、ヤフードームで軟式野球の試合をしました。

私も川崎宗則監督から、「12月に試合をするからしっかりと練習しておくように」といわれ、監督の命令どおり、星野ジャパンの宮崎合宿や台湾遠征の際も、外野での玉拾いやトレーニングに精を出していたわけです。

試合は川崎投手、東国原投手の投げ合いで始まりました。監督の命令で私は初回から3塁コーチとして立ち、サインは出せないのでかわりに声を出します。7回からはセカンドの守備につき、8回には打席がまわってきました。ファールで粘り、フォアボールできっちりと出塁したところで代走を告げられました。試合は結局3対1で敗れたのですが、出塁率10割、ノーエラー(球が飛んでこなかっただけですが)という成績に、川崎監督から、「先生のあの粘りは大したもんだ。十分戦力になる」とおほめの言葉を頂き、うれしくなった私は、もっともっと練習に励もう、と心に誓ったのでした。

ヤフードームに響いた、「ナナバン、セカンド、コマツ」という鶯嬢の声。気持ちよかったなあ。

野球の北京オリンピック予選

2007年12月「e-resident」掲載~台湾・野球アジア選手権大会

―星野ジャパンで玉拾い

今回は台湾から書いています。野球の星野ジャパンの北京オリンピックへの第一歩、アジア選手権大会の帯同です。

台中球場でのナイター練習を終え、選手村となっている福華大飯店にもどり、夕食をとって今部屋にもどりました。夕食ではロッテの里崎選手と日本ハムの稲葉選手といろいろなことを話しながら食べました。オリンピックの選手村よりははるかにおいしい、しかし、普段の日本で食べる食事に比べたら大しておいしくない夕食ですが、「食事は全然問題ないですよ。僕はどこでも何でもおいしいですよ」里崎選手も稲葉選手も言いました。普段は恵まれた環境で生活しているプロ野球選手たちでも「国際試合」がどんなものなのかはよく理解しています。日の丸を背負って世界で戦う選手はやっぱりこうでなくっちゃ。

ナイター練習ではいつもどおり、外野で玉拾いです。オリンピックなどの国際試合ではグランドに入れる人数が限られているため、ドクターであってもいろんなことをしなければいけません。

初めてバッティング練習のときの玉拾いをしたのは、1994年の広島で開催されたアジア大会でした。監督に命じられてやったのですが、野球未経験の私が本物の野球選手が打った硬球を追いかけるのは、ちょっと勇気が要りました。そして、その危なっかしい姿を見て、「先生、危ないからやめたほうがいいよ」と監督に言われたことを思い出します。アトランタオリンピックのときは、試合前の打撃練習で現在阪神にいる今岡選手の打球を追いかけて、フェンスに当たって跳ね返った打球が直接私の股間を直撃、とても苦しかったのですが、試合前にチームに迷惑をかけてはいけない、とひた隠しにしたこともありました。

最近は、「危ないからやめろ」とは言われなくなったものの、相変わらず外野に打ち上げられたフライをポロポロやって、選手たちにやじられています。特に最近は、老眼の進行により眼の調節力が悪くなり、とくに夜間など薄暗いと遠近感がうまくつかめないのです。ポロポロやるのも、それはそれで選手たちとのコミュニケーションのネタにはなるので悪くはないのですが、怪我をしてチームに迷惑をかけることだけは避けよう、と真剣にやっています。

今回の帯同では私の野球技術に進歩がありました。うまく投げられるようになったのです。台湾に入る前、宮崎で合宿したのですが、そのときヤクルトの青木選手とキャッチボールをしました。いつものように外野で玉拾いをしていると青木選手がやってきて、「先生、やるよ」、外野守備練習前の肩慣らしです。キャッチボールを始めたとたん、青木がゲラゲラ笑うのです。「先生投げ方がおかしいよ。それじゃあ砲丸投げだ」。するとそれを見ていた、今回スコアラーとして帯同している福田功さんが外野までやってきて、直ちに私のスローイングの弱点、欠陥を見抜き、スローイングの基本を教えてくれたのです。いままでも、「肘が上がっていない」とよく言われましたが、どうやれば肘を上げて投げることが出来るのかわかりませんでした。しかし、理論を説明してもらい、ちょっとしたコツを教えてもらっただけで、肘が上がるようになったのです。そして、「あとはこの動きを身体に叩き込むことです」、最後に、「ここ(全日本)に来ている連中は、誰に教わったわけでもなく自然にすばらしい投げ方を身につけている天才ばかりなんですがね」と福田さんは付け加えました。

福田さんはキャッチャーとして中日ドラゴンズに入団、引退後その野球理論や指導力を買われて、ドラゴンズの二軍監督や、ベイスターズのヘッドコーチなどを務められた方です。素人の私の弱点を一瞬にして見抜き、そしてどうしたらきちんと投げられるようになるか、素人の私にも出来るような、そしてわかりやすい指導をする。本当のプロの技を見た感じがしました。

―技を伝えるプロ

野球に接していると、いわるる「野球人脈」の巨大さがよくわかります。リトルリーグから高校、大学、社会人、プロ、それぞれの分野でそれぞれの役割を演じる人たちがたくさんいる。「野球の指導者」も世の中にたくさんいて野球界では評価されている。そう考えると、「医学の指導者」って、誰なんだろう。指導される学生や研修医がたくさんいる大学の教官たちも、必ずしも指導するのが得意でない人も多いし、そもそも、「医学の職人技を指導する」という役割が医学界でどれだけ評価されているのだろう。

かつては、僕もERCPを専門とする職人でした。ERCPの腕は全日本レベルだと自分では思っていました。もちろん努力はしたけれど、どうしてうまくなったのかはよくわからない部分もありました。どうしたら上手になるのかを理論的に説明できないわけだから、福田さんのような、「プロの指導力」はなかったのです。みんなが全日本レベルになる必要はないけれど、せめて「どうしたら高校野球レベルのERCP屋をたくさん育てられるか」という、「ERCP上達理論」を確立したかったのですが、無責任にもスポーツの世界に身を転じてしまいました。そこには、医学教育の構造上の壁も見え隠れするけれど、ぜひ残してきた後輩たちにその夢を託そう。

昨日は、選手スタッフ全員での食事会がありました。みんなで、すき焼きを食べながら必勝を誓いました。アジアではすでに中国が開催国として出場権を得ているため、この大会では、日本、韓国、台湾のうちの1カ国にしか出場権が与えられません。厳しい戦いですがきっとやってくれると思います。このエッセイが載るころには、日本の野球の北京オリンピック出場が決まっていることでしょう。

今回も、きちんと自分の役割を果たしてきたいと思います。