第49回衆議院議員選挙が10月19日公示されました。
私は自民党の東京ブロック比例名簿に掲載され比例単独候補としての挑戦となりました。なぜ北陸信越ブロックからではないのか、小松は故郷信州、長野を捨てたのか、様々な声がありました。10月17日に長野市で後援会の役員会を開催し100人余りの皆様にその経緯をお話しし、ご理解いただきました。決してふるさと信州を捨てたわけではありません。あらためてここで書きたいと思います。
10月に突然繰り上げ当選になり、その経緯は前回書いた通りです。10月5日から登院し、14日に解散、そして19日に衆議院選挙の公示、このわずかな間に様々なことがありました。
4年前に3回目の衆議院選挙で落選し、その後長野県全県区で2回の参議院選挙に挑戦し落選しました。その後長野市の事務所は残し、秘書にも残ってもらい、とにかくまずは秋までにはある衆議院選挙でお世話になった長野県内5人の代議士、支部長のために汗をかこう、そして衆議院選挙が終わったら、これからどうするのか、再び政治の挑戦を続けるのか、一医師として世のために働くか、決断しようと考えていました。
そこに、突然の繰り上げ当選、私はこれを運命として受け入れました。そして「衆議院議員としてまだまだ挑戦する」と決意したのです。現職として迎える総選挙、ここで挑戦しなければ政治を引退するということ等しいのです。
しかし、間近に迫った総選挙には自民党として挑戦する選挙区がありません。今まで務めた長野一区は若林けんたさんが挑戦することが決まっています。当然、比例単独候補としての挑戦ということになります。
比例北陸信越ブロックで繰り上げ当選しているわけですから、通常であれば北陸信越ブロックからの挑戦ということになるのですが、私は自民党長野県連および党本部に「北陸信越ブロック比例名簿への掲載はやめてほしい」と申し出ました。それは自分のためではなく、公明党との信頼関係を崩したくない、そして5人の長野県の候補者に迷惑をかけたくないという思いからでした。
4年前の衆議院選挙、苦い経験をしました。北陸信越ブロックで長野市出身の太田昌孝さんが公明党比例で初挑戦しました。一方自民党は比例単独で同じ長野市を基盤とする若林けんたさんが挑戦しました。選挙区では選挙協力し一緒に戦うのに、比例区では敵として闘うという状況が生じてしまったのです。
今回も、公明党は太田さんの後を受けて松本の中川宏昌さんが比例単独で初挑戦します。私が現職の議員として北陸信越ブロックの比例単独候補ということになれば、比例区で競合するということになってしまう、これでは公明党との信頼関係も崩れ、長野県内5人の自民党候補にも迷惑をかけることになる、それが北陸信越ブックでの挑戦を辞退した理由です。
党本部には、現職として衆議院議員を続けたいと伝え、どこの比例ブロックから挑戦するかは、党本部にお任せします、言われたとおりにします、とお話ししました。
そして、公示の直前、東京ブロックからの比例単独挑戦を告げられた、というわけです。
今与えられた立場で、目の前のことに全力を尽くす、私はこれを貫きます。
今回の選挙では、東京ブロック選挙区候補の当選に向けて、全力で応援に入ります。同時に、長野県の5人の候補の当選のために、力のすべてを尽くします。
決して信州人としての心を捨てたわけではありません。長野市の自宅もそのまま、今回の結果がどうであろうと、これからも信州にもしっかり軸足を置いて活動してゆきます。