月別アーカイブ: 2011年11月

全日本大学バスケットボール選手権

今日の昼休み、この夏ユニバーシアードに一緒に行った大学生の選手の「東京なう」のつぶやきを発見。

あれ?なんで東京にいるんだ?そーか、もしかしてインカレ?

11月21日から27日まで東京で男女バスケットのインカレが開催されることを忘れてました。

「今日が初戦でーす」と返事があったので、女子の会場である墨田区総合体育館まで出かけてきました。

8月に深センでのユニバーシアード以来だけれど、みんな元気でいるかな。

会場に入ると、ちょうどわが母校信州大学 vs 東北学院大学の試合中。

ベンチには古澤栄一監督の姿も、超ナツカシイ。

今から30年前、医学部バスケ部だった私は時々教養部の練習にも出かけて古澤先生に教えを乞うたのでした。

古澤先生、全然変わっていない、若い。

残念ながら母校は敗戦、でも昔はそんなにインカレにも出られなかったし、こんな旗やシンボルマークはなかった。進歩進歩。

そして、ツイッターの主、愛知学泉大学は圧勝、おめでとう。

フジの武庫川女子大学も圧勝おめでとう。

隣りのコートでは、山形大学 vs 玉川大学、両ベンチで指揮を執るのは大神訓章監督と野寺和彦監督、お二人とも夏のユニバではお世話になりました。

山形大学の大神監督はあの有名な大神雄子選手のお父ちゃん、いつもベンチで静かに座ったまま何も言わない。

立ち上がって大きな指示を出す野寺監督と対照的。

しかし、タイムアウトでも座ったままで何も言わないのだからスゴイねー、「言わなくてもわかってるだろ」ということなのか。完全に横向いちゃってるもんね。

これが大神スタイル、かっこい~。

一人で観ていたら、われらが世代では伝説のスタープレイヤー「コテツ」こと古海五月さん(旧姓、原田五月)も会場に登場。

一緒に観戦しながら、女子バスケットの強化について話しました。

「昔、うまい女子はみんな大学に行かずに高卒で実業団に入ったけれど、大卒で実業団に入る選手も増えてきた。全日本の強化のためにも大学生の強化にも目を向けなきゃね」というお話、全日本のスタッフとしてこうやってちゃんとインカレも見に来るのだからさすがだね。

女子は来年の6月にロンドンオリンピックの最終予選があります。頑張ってぜひロンドンへの切符を手にしてほしい。

というわけで、懐かしい人や、ユニバの仲間たちとたくさん会えてお話で来て、満足満足のインカレ観戦でした。

27日までやってるから、みんな見に来てね。

体操競技の歴史

こんにちは、セクレタリーKです。小松先生がスポーツドクターとして帯同した、第43回世界選手権は、内村航平選手が個人総合で三連覇を達成。さらにゆかでも金メダルを獲得するなど、日本人選手は大活躍でした。みなさん応援ありがとうございました。

ところで、テレビで試合を見ていると「体操競技は、いつ、誰が、つくったのだろう?」と思いを巡らせるのは私だけでしょうか? そこでほんの少しだけ、体操の歴史を紐解いてみたいと思います。

調べてみると、体操のルーツは、なんと古代ミノア文明にまでさかのぼります。クレタ島のクノッソス宮殿遺跡には「牛飛び」の様子を描いたフレスコ画が残されています。「牛飛び」とは、疾走する牛の角をつかんで、空中に円を描きながら牛の背中に着地して、その上で逆立ちするかっこいいパフォーマンス! 当時のイベントで行われた競技や儀式のようなものだったそうです。今でいう闘牛やあん馬のイメージでしょうか? 紀元前2000年頃から体操は生まれていたというのには驚きです。

中世になると、身体より精神を鍛えることが宗教的な思考で優先されて、体操は不毛の時代に……。しかし、その中でも騎士階級や身体運動をスポーツとして楽しむ民衆によって体操は引き継がれて、徐々に体系化され、近世に至ります。

近世になると、体操はドイツで光を浴び始めます。貴族や君主の青少年に向けて騎士学校や貴族アカデミーなどで、乗馬、剣術、跳馬や、ダンスや球技のようなものが教えられ、身体運動が教育のひとつとして重要だと捉えられるようになっていきます。1774年にドイツの教育者「ヨハン・ベルンハルト・バゼドウ」が開設した「汎愛学院」という学校で体育の授業が行われ、平均台、水平はしご、ボールやこん棒などの道具が使われて始めます。世界ではじめて体育という教科を考えて学校の授業に導入したのはドイツなのです。

1793年には「ドイツ体操の祖父」といわれる「グーツ・ムーン」が「青少年の体育」という本を発刊。この本は学問的に高く評価され、体育の歴史や思想を学ぶためのバイブルともされています。そして「ドイツ体操の父」と呼ばれる「フリードリッヒ・ルードビッヒ・ヤーン」が青少年教育への運動の必要性を唱えて、1811年にベルリン郊外のハーデンハイデンというところに運動場を作ります。自然の草原に手を加えて、数種類のランニングコースと、やり投げの的、飛躍具、木棒、木馬などの器具を用意。ここに現代の体操競技の原型となる、平行棒、水平棒などもあり、ヤーン氏こそが体操の基本を作った人だったのです!

あん馬と跳馬の祖先となる木馬運動は、古代ローマの兵士や若者たちよって乗馬のために準備段階として行われ、片手に武器をもってもうまく飛び乗れるような技術を磨いていたのです。それが時を経て木馬運動の飛び乗りや飛び降り、その時の足さばきが独立して、両手の支える使い方はあん馬運動へ、両手を突き離しての飛び越しは跳馬の跳躍の形式へと2分化されたといわれています。

鉄棒の前身も、ヤーン氏が木で作った直径8cmの太さの水平棒だったと言われています。鉄棒運動のやり方は、木の枝での懸垂運動や綱渡りの綱や水平梯子をわたる運動や、ドイツ体操の祖父「グーツ・ムーツ」の生みだした木を遣った懸垂運動などもルーツになっています。ヤーン氏の水平棒が鉄棒に変ったのは1850年以後で、握りの太さが細くなり、鉄の弾力を利用することで、鉄棒運動の内容は大きく変化していったのです。

平行棒の発生には諸説があり、木馬練習や馬の曲乗り練習の足場から発達したものであるとか、ヤーン氏が体操場を作ったときに、木馬運動をする生徒たちの腕力を強化するために、取り入れたといわれています。振動運動に加えて両腕を支えて安定させることで、力をつけることができたのでしょう。

つり輪に関しては、アドルフ・シュピース氏によってとり入れられたそうですが、ローマ時代にすでに抵抗運動のひとつとして、綱の端をまるめて結び、その輪に足を入れたり、ぶらさがったりすることが行われていて、発生はかなり古いと考えられています。

様々な時代の中で紆余曲折しながら変化を遂げ、徐々に体操は発展していき、世の中に普及し、1881年に国際体操連盟が発足します。1996年の第1回アテネオリピックから男子体操は正式種目となり、6カ国が参加。その際にはゆか運動はなく、代わりにロープ登りがあったそうです! 現在のゆか、あん馬、つり輪、跳馬、平行棒、鉄棒の6種目になったのは1936年から。女子の跳馬、段違い平行棒、平均台、ゆかの4種目別の世界大会は1992年のオリンピック大会から開始されました。それ以前には、女子の種目にもつり輪があったのです。

日本は1932年のロサンゼルス五輪で体操競技に初参加。今では体操王国と呼ばれる日本も、その時は参加5ヶ国中、最下位だったとは信じられません。

体操競技には長い長い歴史があるのです。詳しくはまた小松先生にお伺いしてみようと思います! 来年のロンドンオリンピックが今から楽しみです。

アトランタ会の夜

今日の夜は久しぶりにアトランタオリンピックの野球の仲間たちとの会でした。

集まったのは杉浦正則、木村重太郎、黒須隆、そして名マネージャー津賀正晶さんと私の5人。

12月4日にオリンピックに出場したメンバーで行う野球教室の打ち合わせ、というかそれに名を借りた飲み会。

3人とも現在は野球を一時離れて職場での重責を担う忙しい身ですが、やっぱり、野球に情熱をかけてきて、野球で学び、なにより野球が大好きな面々。

指導論から始まって野球界の現状や進むべき道にまで話がおよび、あっという間の4時間でした。

あの頃、といってももう15年以上前になりますが、年に何度も合宿して、一緒に過ごして、同じ目標を持ってみんなでオリンピックを戦った、いわゆる同じ釜の飯を食った仲間です。

何年たっても、気を遣うことなく話ができるのがいいねえ。

今日も単なる思い出話ではなく、前向きな話題になってとてもよかったです。

巨大な野球人脈で、スポーツの力を世の中に役立てたいなあ、とみんなが感じたのでした。

久しぶりのバスケ

久しぶりに書きます。

よく見ると2週間も書いてなかったのね。

確かにこの2週間、かなり忙しかったからなあ。

でも言い訳はダメダメ、今日からこまめに書きますからお許しを。

今日は2週間ぶりにバスケットの練習に行ってきました。

2月に腰の手術をした後、しばらくお休みしていたけれど、8月から徐々にバスケットも再開、もう腰も不安はなく、元気にコートを走り回ることができました。

ゲームでも7分ゲーム3セットで合計12点とまあまあ。でも、やっぱり走る体力がイマイチではあったなあ。

バスケ仲間は年齢も職業も様々、もちろん大学生もいます。だから楽しい。

もちろん練習のあとは生ビールをぐびぐび。これがまた楽しい。

みんなの話を聞いて人生勉強。自分の娘より若い連中の話を聞いてさらに勉強。

わが娘たちは相手にしてくれないけれど、バスケ仲間は相手にしてくれるからね。

感謝感謝!

そして今日の飲み会の結論は「やっぱり楽しくバスケットをやらなきゃね」「いいかげんさも大事だね」

ということで、今日も楽しいバスケット&飲み会だったのでした。

練習後のビールはやっぱりうまいねえ、若者の中におじさんが一人いるけど違和感はないでしょ!一番左に顔半分しか映っていない女性がいますが、あまりに美人過ぎるので半分しかお見せできません。全部見たい人はバスケしに来てね!

大船渡を訪れて感じた「これからこそ試されるスポーツの力」

青森市に来ています。

明日から開催される日本臨床スポーツ医学会、学会前日の今日は第一回チームドクター・トレーナーミーティングに出席して勉強です。

昨日は青森に入る途中、師匠の増島篤先生と一緒に被災地大船渡を訪ねてきました。

震災の直後、われわれもスポーツ人として、医者として、すぐ見何かできないかを考え、大船渡市を拠点にJOC医学サポート部会として震災支援を約1か月行いました。

詳細はITメディアエグゼクティブに連載中のコラムをぜひご覧ください。

その時に大変お世話になったのが大船渡の本増寺です。私は2月に腰の手術をして動くことができなかったため残念ながら実際の現場でお手伝いすることができませんでした。いつか必ずお伺いしなければと思っていたので、ようやく実現しました。

新幹線を一関で降りて、レンタカーで陸前高田を経由して大船渡に向かいました。

助手席の増島先生が3月に初めて訪れた時のことを話してくれます。

「ここら辺までは普通の景色、でもこの橋を渡ると見たこともない景色が広がっていたんだよ」

陸前高田に入るとがれきは片付いているものの、大きなビルしか残っていない何もない街並みが目の前に見えてきました。

積まれたがれきを見つめながら、その時を思い出す増島先生。

残った鉄筋コンクリートの建物は、4階まで津波が押し寄せたあとがくっきり。津波の巨大さを実感しました。

再び車を運転して大船渡・本増寺に到着しました。

ご住職はいらっしゃらなかったけれど、スポーツ関係者でもある息子さん、木村文律さんが待っていてくれました。

お寺の中にはジャック・ロゲIOC会長や震災後大船渡を訪れてくれた橋本聖子さん、大山加奈さんなどの色紙も飾られていました。

「岩手県はようやくみんな避難所生活から仮設住宅への移動が終わったけれど、学校の校庭に仮設住宅が作られているため、子供たちがのびのびとスポーツをできるグランドがないのです」と木村さん。

早く何とかしなくちゃね。津波に襲われて何もなくなってしまった空間を本増寺から眺めながら、「せめて建物が建つまでの間、この空間をグランドにすることはできないかなあ」なんて考えました。

本増寺をあとにして、救護活動の拠点になったリアスホールや毎日会議を行った大船渡市役所、県立大船渡病院なども訪れました。

まだ街中には片づけられていない陸に打ち上げられた船も発見、あらためて津波の恐ろしさを感じるとともに、一日でも早い復興を願わずにいられませんでした。

震災後の復旧・復興に少しでも役立てたい「スポーツの力」、その力は今後こそ試されるのだと思います。

実際に被災地を目の前にして、その思いを強くして再び一関から新幹線に乗って青森へ向かったのでした。