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熱中症―毎年繰り返される悲劇

2010年8月「e-resident」掲載

今年は梅雨明け後、猛暑が続きました。7月までに2万人以上の人が熱中症で病院に救急搬送され、7月17日からの2週間で216人の方が亡くなったとの報道もありました。毎年この時期にはマスコミから熱中症に関するコメントを求められ、今年も何度かテレビやラジオでコメントしました。熱中症の危険性や救急処置、水分補給の重要性などはもっと多くの人に知ってもらわなければなりません。

熱中症の最も重症な状態を指す「熱射病」に陥ると、死亡する可能性が高いのです。かつては「日射病」などと呼ばれ、直射日光が関係する印象がありますが、熱中症は室内でも簡単に起きてしまいます。

―熱中症事故はお年寄りや乳幼児だけではない

近年の都市化によるヒートアイランド現象や地球温暖化の影響もあって熱中症に対する知識が普及しているにもかかわらず、熱中症による死亡者数は減りません。毎年500人近くの方が亡くなっており、その多くが体温調節機能の衰えたお年寄りや脱水状態になりやすい乳幼児です。さらに、15歳前後の元気な中学生、高校生がクラブ活動中やスポーツ中などに熱中症で死亡するという事故も多いのです。

スポーツ活動中の熱中症の死亡事故は毎年起きています。「行ってきます」と元気に家を出た子どもが、次の日には変わり果てた姿で家に戻ってくるのです。家族にしてみれば、「どうして?」となかなか受け入れられません。スポーツの指導者が熱中症の知識に乏しいことが原因になる場合もあり、最近では訴訟の件数が増えています。スポーツによる熱中症事故は「無知」と「無理」によって健康な人でも生じるものですが、適切な予防措置さえ講ずれば防ぐことができるのです。

―意外と歴史が浅い熱中症の予防対策

わたしが熱中症にかかわることになったのは、今から19年も前のことでした。それまで日本では、スポーツ活動中の熱中症予防に関する具体的な予防指針がありませんでした。そこで悲惨な事故を防ごうと、1991年、日本体育協会に「スポーツ活動における熱中症事故予防に関する研究班」が設置されました。そのとき、現在わたしの上司である川原貴先生に声を掛けていただき研究班に加わりました。

研究班では、スポーツ活動による熱中症の実態調査、スポーツ現場での環境測定、体温調節に関する基礎的研究などを行い、1994年には「熱中症予防8か条、熱中症予防のための運動指針」を発表しました。このガイドラインは、日本体育協会のホームページでダウンロードできますので、ぜひ一度ご覧いただけたらと思います。これらの功績が認められ、2002年には秩父宮スポーツ医科学賞を受賞しました。

今では考えられないことですが、当時は熱中症という言葉がそれほどポピュラーではありませんでした。日射病の方が一般的で、「熱中症って何かに熱中し過ぎること?」などと真面目に聞かれたこともあります。

―水分補給できる環境作りを

地道な普及活動の甲斐があり、熱中症がどんなものなのか、多くの人々に広まってきました。「暑い時期にスポーツする場合には、こまめな水分補給が大事」ということもかなり浸透してきました。しかし実際には、スポーツの現場で適切な水分補給ができていない場合がまだ多いといえるでしょう。

重要なポイントは、自由に水分補給できる環境にあるかどうか。クラブ活動中に、「自由に水を飲んでもいいよ」といっても、「休憩時間に先輩よりも先に水が飲めない」、「すぐ近くに水がない」、「水ばかり飲んでいたらだらしがないと思われる」といった、水分補給を邪魔する要素がまだまだ存在します。実際に下級生ほど熱中症による死亡事故が多いというデータもあります。スポーツの現場では、いつでも水分補給できる環境や、いつでも水分補給できる雰囲気を作ってあげることが肝要です。

熱中症になるかどうかは、その日の体調も大いに関係します。寝不足、きちんと食事が取れていない、下痢や風邪などの状態は熱中症になりやすいのです。「前日に遅くまで飲んで、寝不足のまま朝食も取らずにゴルフに出発。炎天下でプレイして昼にビール」――これは最悪のパターン。ビールは利尿作用もありますから脱水をさらに助長します。

まだまだ暑い日が続きます。皆さんも「こまめな水分、塩分補給」と「外出前、運動前にコップ1杯の水」を心掛け、決して無理せずに夏の暑い時期を乗り切ってください。

ベネズエラ美人と国策としてのスポーツ

2010年7月「e-resident」掲載ベネズエラ、カラカス・「女子ソフトボールの世界選手権」

女子ソフトボールの世界選手権がベネズエラの首都・カラカスで開催されました。4年ごと、オリンピックの2年前に開催されるこの世界選手権が前回まではオリンピック予選を兼ねていました。

これまで日本チームは毎回オリンピックの出場権を獲得していたものの、いつも決勝で米国に敗れて世界一になれないでいました。しかし、2年前の北京オリンピックで見事、宿敵米国を破って世界チャンピオンになりました。その後、ご存じのようにソフトボールがオリンピック競技から外れることが正式決定したため、この選手権がソフトボールの世界一を決める唯一の大会となりました。

日本中が感動した北京オリンピックの金メダルでしたが、もう随分と昔の話になってしまった気がします。

今回の世界選手権のことも日本ではほとんど報道されておらず、このコラムで初めて知った読者の方も多いでしょう。そんな中、「バック・ソフトボール」を合言葉に再びオリンピック競技種目に戻ることを目指して、そして再び世界一になることを目指して、選手もスタッフも頑張っています。

今回の世界選手権に挑む日本チームの監督は北京オリンピックで指揮を執った斎藤春香監督、選手団の団長はシドニーおよびアテネオリンピックで指揮を執った宇津木妙子さんです。

カラカスに着いた日の夜、さっそく宇津木団長から「明日の朝6時にエレベーター前に集合」との命令が下りました。選手たちにではなく、わたしに対してです。

翌朝から、宇津木団長と2人きりでの早朝トレーニングが始まりました。選手が宿泊するホテルの地下にあるジムで2人並んで毎朝1時間トレッドミル(ランニングマシーン)をこぎながら、いろいろな話をするのです。

この2人きりのトレーニングは、アテネオリンピックの時も毎日のように行いました。シドニーで惜しくも銀メダルに終わり、「今度こそ金メダル」と臨んだアテネオリンピックでしたが、思うような結果がついてこなくて、一緒に並んでトレッドミルをこぎながら、宇津木さんの愚痴をよく聞きました。オリンピックの監督は孤独です。結果だけですべてを判断される厳しい世界です。愚痴の1つでもこぼしたくなるでしょうが、選手やマスコミの前ではそんなことは言えません。

ドクターとしてアテネオリンピックでわたしが最も時間を割いたのが、宇津木監督の話を聞くことでした。北京オリンピックで優勝が決まった瞬間、あのテレビ解説での絶叫には、今までのさまざまな思いが込められていたに違いありません。

今回もいろいろな話をしました。

「サッカーW杯での日本代表チームの活躍は、スポーツの素晴らしさを皆に実感してもらえて、日本のスポーツ界にとってはすごく良いことだよな」

「子どもたちにソフトボールを教えていると、やはり教育が国の基本だと実感するな」

「今回の大会はベネズエラ政府の力の入れ具合がすごいな。日本でもこういうことができればなあ」

すべての話に共感しました。

―ベネズエラ全体で盛り上がる

今回の世界選手権ではベネズエラ政府が国策としていかにスポーツ振興に力を入れているのかが実感できました。真夜中に到着した日本チームを歌と踊りで歓迎するとともに、スポーツ・観光大臣が自ら出迎えてくれました。開会式ではチャベス大統領が来て演説しました。

本来米国で開催される予定だったこの世界選手権ですが、半年前に米国が辞退したことで急遽ベネズエラでの開催が決まり、わずか半年で新しいソフトボール競技場を2つ完成させました。大会期間中は大会運営に多くの人がかかわりました。試合会場に移動する際には「JAPON」と書かれた日本選手団専用バスが用意され、沿道では多くの兵士たちがバスを警護してくれました。チケットはすべて無料で配布されたこともあり、会場はいつでもベネズエラの人たちで超満員、テレビではすべての試合を生中継しています。この大会運営に30億円投じたそうです。

政治の仕組みに違いはあるにせよ、とても日本ではできないことだろうなと、うらやましく感じました。

―美女の育成も国策

ところで、「ベネズエラ美人」という言葉をご存じでしょうか。ベネズエラでは、テレビに出ている女性は美女ばかりで、世界的なミスコンでも多数の優勝者を出しています。街ゆく人も肉感的な美人が多い。聞くところによると、これも国策だそうです。観光立国を目指すベネズエラは美人の育成にも力を入れており、国立のエステやモデル学校を設立し、世界コンテストに出る場合には、国がお金を出して候補を育てるとのこと。

これは国策としてはどうかなと思ってしまうけれど、国の政策というのは大きな展望やビジョンを持たずには成しえないのだということはよく分かりました。

さて、今回の日本チームです。予選リーグを7戦全勝とグループトップ通過した日本はプレイオフでまず、地元ベネズエラと対戦し、超アウェーの中、2対0で勝ちました。

決勝戦の相手は、北京オリンピックと同じ米国でした。残念ながら7対0で敗れ、オリンピックに続く金メダルはなりませんでした。それでも選手たちはよく頑張りました。これからも「バック・ソフトボール」を合言葉にオリンピックへの復活を目指していきます。時々は気に掛けてくださいね。

インドでのレスリング選手権にて

2010年6月「e-resident」掲載~インド、ニューデリー・「レスリングアジア選手権」

今回のコラムは、日本に帰国する飛行機の中で書いています。インドのニューデリーにおいて、5月12日~16日の日程でレスリングのアジア選手権が開催され、チームドクターとして帯同しました。男子フリー、グレコローマン、女子でそれぞれ7階級、21人の選手が出場し、連日気合の入った熱戦が繰り広げられました。フリーでメダル4つ、グレコでメダル1つ、女子は全員メダルを獲得し、合計で金2、銀4、銅6という結果でした。詳細は日本レスリング協会のホームページをご覧ください。

2カ月前、日本レスリング協会の医科学委員会の席上において、「下痢する選手が必ず出るインドはやっぱり内科医が必要でしょう」という師匠・増島篤委員長の一声で、わたしが帯同することに決まりました。滞在中の1週間、いろいろなことがありました。そして今、この原稿を書いているわたしのおなかはグルグル鳴っています。通路側の席で助かりました。成田に着くまで何回トイレに行くことになるのだろう……。

―チームドクターの一日

読者の皆さんは、チームドクターが毎日何をしているのかイメージがわかないと思います。そこで、大会期間中のわたしのある一日を再現しましょう。

朝7時に起床し、今大会の団長であるモントリオールの金メダリスト・高田裕司さんとホテルの隣の公園を散歩します。前の晩、「先生、明日の朝一緒に散歩しようよ」お誘いを受けました。「今日も遅くなるだろうし、明日はゆっくり寝たいなぁ」と思いつつ、「オトモイタシマス」と直ちに答えたわたし。選手はもちろん、スタッフや協会の重鎮たちとのコミュニケーションはこの仕事をする上でとても大事だからです。朝7時といえども、ニューデリーはすでに30度を超えています(ちなみに、その前日の最高気温は43度でした)。

ペットボトルを片手に水分補給しながら散歩して、シャワーを浴びてから朝食です。きちんとしたホテルですが、すでに下痢や発熱の選手が数人出ているため、選手たちが変なものを食べていないか気を配ります。部屋(トレーナーとの2人部屋)に戻り、仕事のメールを確認している間に、選手が2人、生理痛や風邪の症状で部屋にやってきました。

午前11時にパトカーが先導するバスに乗り込みホテルを出発し、約30分で試合会場に到着しました。ウォームアップ会場に入り、選手たちは試合に向けてアップを開始します。試合が始まるまでの間は「ちょっとおなかが痛いんですけれど…」と訴えてきた選手に対応し、試合中はリングサイドで応援しながら、不測の事態に備えます。

午後5時には、翌日の試合のための計量やメディカルチェックにやってきた選手たちに対応します。試合前のメディカルチェックというのは、試合で相手に感染させる恐れのある皮膚感染症などがないかどうか、大会のドクターがチェックするのですが、何かいちゃもんをつけられたときにはわたしが出て行き、問題ないことを証明するのです。

午後6時からは決勝トーナメントが始まり、表彰式の後はドーピング検査の対象となった選手に付き添います。検査員の言葉を通訳し、ドーピング検査室で選手の権利がきちんと守られているかにも気を配ります。検査が終了して、バスに乗り込み、ホテルに着いたのが午後10時。それから食事をして、シャワーを浴びて、マッサージを受けている選手たちと雑談して、深夜2時くらいに就寝します。帯同時は大体このような毎日です。

―インドの救急車に乗り込む

今回の大会は10月にニューデリーで行われるコモンウェルスゲームズ(4年に1度、イギリス連邦に属する国が参加する総合競技会)のプレ大会ということで、とてもセキュリティチェックが厳しく、至るところに警官や軍の兵士が銃を構えていました。ですから、われわれはホテルと会場の往復だけで、それ以外のところには勝手に行くことができません。しかし、そんな中、貴重な体験をすることができました。

ある選手が試合後、マットにあおむけになったまま起き上がれなくなりました。直ちにマットに駆け上がると、選手は強い痛みで過呼吸状態に陥っています。意識などに問題ないことを確認して「大丈夫だよ」と声を掛けながら落ち着かせると、鎖骨のあたりに強い痛みを訴えます。一見、骨折や脱臼はなさそうと判断しましたが、念のためレントゲンで確認することにしました。

大会組織委員会が手配してくれた救急車に選手と一緒に乗り込みました。すると、インドの救急車にびっくり。とても汚くて、ここで治療したら病気が悪化しそうな雰囲気で、おんぼろ車のためにすごい振動です。車内は冷房もなく、窓を開けたら40度の熱風が吹きつけてきたので、あわてて窓を閉めました。

―医学の常識が必ずしも当てはまるわけではない

病院に到着しレントゲン室に入ったら、ここも物置小屋のよう。改めて日本の医療水準の高さを実感しました。幸い、骨に異常はなく選手の痛みもだいぶひいてきました。そこでインドの偉そうな大先生が登場し、入院病棟に運ばれ、「VIP」と書かれた個室に案内され、「念のため安静が必要だから明日の朝まで入院しなさい」というのです。おそらく、外国からのゲストにきちんと対応しなければという善意だと思いますが、「自分はドクターだから何かあったら責任を持って対応する」という旨を話して、何とか帰らせてもらうことになりました。

帰りの救急車では、少し元気になった選手と一緒に観光気分を味わいました。救急車は今までまったく通らなかった路地を走り、ものすごい人ごみや、馬車の馬小屋、道を歩く象など、まさにインドを堪能することができました。

―街中を歩く象

会場に戻ると、「観光できて良かったじゃないか」とコーチにからかわれた選手でしたが、ドクターの立場では、今日の試合に出場するのはちょっと無理だと思いました。しかし、「骨に問題ないのであれば、ここで痛みをこらえて戦うことが必ず将来の成長につながる」という高田団長の言葉によって、選手もその気になり奮起し、見事銅メダルを獲得しました。

 

「やはりドクターよりも経験者の見立てのほうが正しいな」と納得し、オリンピックチャンピオンの偉大さを改めて感じたのでした。

以前のコラムでも述べたように、医学の常識が必ずしもスポーツの現場で当てはまらないことだってたくさんあります。今回のインドでも多くを学びました。

 

日本のスポーツ強化に向けてやるべきこと

2010年3月「e-resident」掲載

バンクーバー冬季オリンピックが幕を閉じました。日本は金メダルなしという結果に終わりましたが、銀、銅計5個のメダルを獲得し、さまざまな場面でわれわれに感動を与えてくれました。しかし、韓国は金メダル6個、メダル合計14個の大躍進。これから、「韓国と日本のオリンピックに向けた取り組みの違いは何だったのか」について検証が始まり、4年後のソチ冬季オリンピックに向けて、再びまい進していくことになります。

「オリンピックに向けた強化」というとお金をいかに掛けるかという議論になりがちですが、単に国家予算をつけるだけでは駄目でしょう。人材の発掘、選手を支える仕組み、環境や施設の整備、選手や競技をサポートする人たちの教育や養成、さらに踏み込めば、学校教育や社会の仕組みも強化につながってきます。しかし何よりも、スポーツを支えることが社会にとって大事なことであることを多くの国民に分かってもらえる努力を続けていかなければなりません。それがなければ、「なぜスポーツなんかに金を使うのか」といった話に必ずなってしまいます。

スポーツの価値はさまざまです。「夢と感動を与える」という単純なものだけではないのです。以前このコラムでも書きましたが、2016年の東京オリンピック招致の支持率が日本では高くなかったというのは、この「スポーツの価値」の認識が日本にはまだまだ足りないということの裏付けだと思います。スポーツの多様な価値を認識し、スポーツの社会的な位置付けをしっかり議論していかなければなりません。

文部科学省も、スポーツ政策の方向性を示す「スポーツ立国戦略」に向けて動き始めました。これは、昨年政経交代前に廃案になったスポーツ基本法の策定やスポーツ庁の設置などを視野に国策としてスポーツの意義や価値の再構築を目指すものです。このような行政や法的なバックアップも大切ですし、やはり、それを支える国民のスポーツに対する理解も大事です。

―スポーツに専念できるドクターが必要

そうした中、わたしが取り組まなければいけないのが、スポーツ選手を支えるスタッフの養成、特に、現場に深くかかわることができる有能なスポーツドクターの育成です。実は「スポーツドクター」と一言でいっても、その範囲はとても広いのです。なぜなら、スポーツ医学自体が、トップアスリートのサポートから生活習慣病の予防のためのスポーツまで多岐にわたる学問だからです。

現在日本でスポーツドクターと名乗ることのできる医者は3万人もいます。日本体育協会公認のスポーツドクターが約5000人、日本整形外科学会認定のスポーツ医が約5000人、そして日本医師会の健康スポーツ医が2万人もいます。これらの資格は講習会への参加だけで取得できますが、いくらスポーツ医学の知識があっても、オリンピックなどの現場では、さまざまな場面に出くわします。医学的に正しいことがスポーツの現場では必ずしも正しくないこともあります。時には医学を無視しなければいけないことだってあります。これを理解するには、多くのスポーツ現場での経験が必要になります。医学以外の問題が絡んでくることも多いのです。

しかし悠長に「徐々に経験を積みなさい」ということをしていては駄目で、体系的に教育するシステムの構築が必要です。また、現在はほとんどのスポーツドクターが病院勤めなどをしながらボランティアでスポーツにかかわっています。当然、海外遠征の帯同などには制限が出てきます。大会をはじめとするスポーツの現場だけにかかわることができ、それだけで安定した収入が得られるようなポストの増設も必要でしょう。

―数々の偶然

自分自身を振り返ってみると、スポーツの世界に深くかかわるようになったのは数多くの偶然がありました。大学を卒業し、医者になって研修先として選んだ東京・広尾の日赤医療センターに、たまたまアイスホッケーやバスケットボールのチームドクターをしている先生がいました。「医療にはこんな世界もあるのか」と初めて知ったわたしに対し、その先生から「小松君ちょっとやってみる?」と声を掛けられ、練習中に突然死したバスケットボール選手に関する研究を学会発表することになりました。

それが縁で日本バスケットボール協会の医科学委員会に入れてもらい、現在東芝病院におられる増島篤先生と出会います。野球に医科学支援がまだなかった時代、バルセロナオリンピックの後に増島先生から「ちょっと野球も手伝ってよ」と言われ、野球の医科学委員会に入りました。野球のチームドクターとして初めて帯同したのが、1994年に広島で開催されたアジア大会、その2年後のアトランタオリンピックにも帯同しました。そこでの仕事ぶりに一応合格点を与えてもらえたのでしょう。次はソフトボールからも声が掛かり、シドニー、アテネとソフトボールのチームドクターとしてオリンピックに帯同しました。

その後、現在在籍する国立スポーツ科学センターに来て、アテネオリンピックの時に体操のコーチと同室だったことが縁で、体操競技も手伝うようになりました。さらには、師匠・増島先生から「レスリングも手伝ってよ」と言われ、レスリングにもかかわるようになりました。このように、たくさん経験させていただいてわたしは育ちました。

―スポーツドクターの養成システムを

現在まで長く続いているのは、こうした仕事がわたしに向いていたからでしょうが、残念ながら偶然頼みだけでは新しい人材は育ちません。人材を発掘して、スポーツの現場に深くかかわるスポーツドクターを養成する「システム」を早く作らなければいけないのです。

どうも医者の世界というのは、職人気質なところがまだ残っていて、「先輩の技を見て盗め」、「たくさん経験を積め」といった指導がなされることが多いです。もちろん大事なことですが、それだけでは世の流れに取り残されてしまうような気がします。

今年度から日本オリンピック委員会(JOC)でも「ナショナルコーチアカデミー・メディカル版」として、スポーツの現場で活躍するドクターを養成するための講座を開始しました。日本のスポーツが強くなるために、選手にだけ目を向けるのではなく、選手を支える人材の育成にも目を向けることが必要なのです。

今年は「宗侍」

2010年2月「e-resident」掲載

五輪イヤーの2010年が明けました。わたしは正月早々、今年も鹿児島に行ってきました。仕事ではなく、野球の試合に出場するためです。

わたしたちのチームの名前は「宗侍(ムネザムライ)」。そうです、福岡ソフトバンクホークスの「宗リン」こと川崎宗則選手がオーナー兼監督兼ピッチャーという、オフシーズンに結成される軟式野球チームです。昨年までは「宗リンズ」というチーム名でしたが、ワールド・ベースボール・クラッシック(WBC)で2連覇を達成した「侍ジャパン」にあやかり、今年から「宗侍」になりました。

宗侍のメンバーは、川崎選手と仲の良い野球選手や元野球選手、バッティングピッチャー、トレーナー、道具係などの裏方さん、昔から川崎選手が慈善事業でお世話になっている会社の会長さんなどです。その一員としてわたしも加わっています。

川崎選手とは、2002年11月にキューバで開かれた野球のインターコンチネンタルカップ以来、かれこれ7年の付き合いになります。この大会は成長が期待される若手プロ選手を中心にチームが編成され、当時まだ2軍で無名だった川崎選手も全日本のメンバーに選ばれました。わたしはチームドクターとして帯同していましたが、お互い「同じにおい」を感じたのでしょうか、どういうわけか仲良くなりました。その後の川崎選手は、ご存じの通りの大活躍で、一躍スター選手に駆け上りました。年齢は離れていますが、礼儀正しくさわやかな好青年で、何より彼のさまざまな「プロ」としての姿勢にはいつも感心し、学ばせてもらっています。

―いざ、川崎選手の故郷へ

2年前には東国原英夫宮崎県知事率いる「チームそのまんま宮崎」と戦ったこともあるわれらがチーム「宗侍」、今回は地元の中学生たちとの試合です。

自主トレの1日はまだ薄暗い朝7時の体操から始まりました。ひと風呂浴びてから朝食をとって、9時にホテルを出発し、川崎選手の故郷である姶良町に向かいました。球場にはすでに大勢のファンたちが詰め掛けています。さすがにそんな中で体を動かすのは少し恥ずかしいけれど、ストレッチをして、シャトルラン、基礎トレーニング、バッティング練習の球拾いとこなしました。 昼近くになると、バックネット裏におばちゃん軍団がやって来ました。作った昼ご飯を届けに来てくれた川崎一族です。川崎ばあちゃんの作ってくれたうまいうどんをたらふく食べて腹ごしらえを終え、野球教室、そしていよいよ宗侍の開幕戦を迎えました。

―決して手を抜かない真剣勝負

「それでは先発メンバーを発表する」――。ベンチ前に集合したメンバーを前に川崎監督が続けます。「1番ピッチャー川崎、2番…………、8番レフト小松」。やった、先発メンバーです! 昨年は満塁のチャンスで走者一掃のタイムリー二塁打を打ったからなあ。きっとそれが認められたのでしょう。初めての先発です。

わが宗侍の打線は初回から大爆発、相手のミスもあって大量点を奪いました。守ってもエース川崎の快投と安定した内野陣で得点を許しません。わたしも一生懸命に戦っている子どもたちに失礼ないように、緊張しながら真剣に守りました。でも、ピッチャーがまともだから外野にはあまり球が飛んでこなくて一安心。結局、わたしは3打数ヒットなしでしたが、1本だけ飛んできたレフトフライを何とかキャッチ。試合も宗侍の大勝で開幕戦を飾ったのでした。

試合の途中、中学生チームはベンチの中で直立不動のまま監督から説教されていました。恐らく、「川崎選手たちが全力で手も抜かずに戦ってくれているのに、お前たちのその不甲斐なさは何だ!」という檄だったのだと思います。中学生たちは人気スターである川崎選手の投げる球を打てるだけでも満足なのかもしれません。しかし、中学生相手でも一生懸命に戦うという川崎監督のポリシーの下、宗侍のメンバーはベンチでも大きな声を出し、どんなことでも手を抜きません。そこには「おれの姿を見てお前たちも頑張れ」という川崎選手のメッセージが込められているのです。

川崎選手の姿を見ていると、単なる「ファンサービス」の域を超えていることに気付きます。自分を育てくれた姶良町、活躍を楽しみにしてくれている家族、いつか川崎選手のようになろうと頑張って練習する野球少年たち、日ごろ支えてくれる裏方さんたちといったそれらすべてに対して感謝の気持ちを示すとともに、彼らの思いに対しても応えてくれます。ですから、全員が「川崎のために」という気持ちになります。グラウンドでのプレーももちろんですが、こういった姿勢にもファンは魅せられるのです。


翌日の自主トレには読売ジャイアンツの伊集院峰弘選手が合流し、わたしも彼らと一緒に階段トレーニングなどのメニューをこなしました。もちろん若いプロ野球選手たちと同じようにはできないけれど、最後まで一生懸命やりました。おかげでくたくたになりましたが、達成感とともに今年は何か良いことがありそうな予感がしたのでした。

 

「バック・ソフトボール」は終わらない

2010年1月「e-resident」掲載~マレーシア、クアラルンプール・「第4回アジア女子ジュニアソフトボール選手権大会(U-19)」

昨年末はマレーシアのクアラルンプールに出張していました。12月13日から16日まで「第4回アジア女子ジュニアソフトボール選手権大会(U-19)」が行われました。2011年には南アフリカでジュニアの世界選手権が行われるので、そのアジア予選を兼ねた大会です。今回出場したのは、日本、中国、台湾、韓国、シンガポール、インドネシア、タイ、インド、イランの9カ国。わが日本女子U-19チームは圧倒的な強さで優勝を飾り、世界選手権への出場を決めました。

上野由岐子投手の力投をはじめ、北京オリンピックで金メダルを取ったソフトボールチームの見事な戦いが昨日のことのように思い出されます。チームスポーツの活躍は間違いなく日本に元気を与えてくれました。その時すでにオリンピックの正式競技から外れることが決まっていたソフトボールは、2016年のオリンピックで再び正式種目として復活させるためのアピール活動、「バック・ソフトボール」を行ってきました。

しかし、昨年10月の国際オリンピック委員会(IOC)総会では、2016年のオリンピック開催地(ブラジル・リオデジャネイロ)とともに、7人制ラグビーとゴルフが正式競技として採用されることが決定し、残念ながらソフトボール復活の夢はかないませんでした。ソフトボールがオリンピック種目から外された理由として、世界的に普及していないことが挙げられました。今回のマレーシアでは「何とか世界にソフトボールを普及させたい、あきらめずにオリンピック種目として復活させたい」というソフトボール関係者の強い思いを感じたのです。

―ソフトボール場がない!

「マレーシアにソフトボールができる場所なんてあったっけ?」――。出発前、4年前までクアラルンプールで仕事をしていた同僚の一言が気になっていました。マレーシアに到着した翌日、練習のために試合会場を訪れたわれわれは呆然としました。

グラウンドがないのです。ただの原っぱ。やはりマレーシアには野球場やソフトボール場はありませんでした。雑草を刈ったばかりと思われる原っぱのくぼんだ部分は砂で埋められており、まるでゴルフ場のバンカーのようです。周囲には、これから外野フェンスを作るための杭が扇形に打ち込まれています。

「どんな環境、どんな状況に置かれても、われわれはしっかりと日本のソフトボールをするだけだ」と苦笑いしながら檄を飛ばす渡辺和久監督。楽しいことが起こりそうな予感もしてきました。

その後、バックネットを設置したりフェンスを張ったりと、急造グラウンド作りが始まり、何とかソフトボール球場らしきものが出来上がりました。大会前日の夕方でした。

―試合前に起きた珍事件

日本の初戦の相手はインドでした。試合がまさに始まろうとしたとき、主審とインドのキャッチャー、コーチが日本のベンチ前にやってきました。「キャッチャーのヘルメットと、のどあてを貸してくれないか」というのです。主審はキャッチャーマスクだけでは危ないから試合を開始できないと言い、インドのコーチは、インドでは使ったことがないから持ってないよというわけです。用具を貸してあげたいところですが、ブルペン練習でも使う必要があるので、結局、インドチームは試合のない中国チームから用具を借りて、ようやく試合が始まりました。

そんな具合ですから力の差は歴然です。20対0の3回コールドで試合は終わりました。そんなインドチームでしたが、逆にイランチームを相手に27対0のコールド勝ちを収めました。聞くところによると、イランチームは大会10日前に結成されたのだそう。やはり、ソフトボールが世界に普及しているとは言い難い状況です。

―「バック・ソフトボール」は続く

初めて体験する、和気あいあいとした国際試合でしたが、そんな中でも日本チームは全力で戦いました。今大会を通じて、試合に勝つだけでなく、アジアの中で果たすべき日本の役割を皆が感じ始めました。

試合の合間には、地元のマラヤ大学のソフトボール部に向けて急造ソフトボール教室を開きました。選手たちは応援に駆けつけた地元の小学生たちと交流し、「こんなに速い球を投げるの!?」と驚かせるなど、彼らにソフトボールの魅力を伝えました。

大会最終日の夜にはレセプションが開かれ、各チームが壇上で踊りや歌を披露し交流を深めました。「アジアでもさらにソフトボールを普及させていこう」と、日本からイラン、インド、タイの3カ国にボールが寄贈されました。なにしろこの3チームは公式球を持っていなかったのですから。

大会中に出された国際ソフトボール連盟のリリースでは、ジュニアのアジア選手権に初めてイランが参加したことや、ソフトボール場がなくても大会を開催できたことを賞賛していました。どこでも誰でもできるスポーツとして普及させたいという強い思いが伝わってきました。「バック・ソフトボール」は、単にオリンピック種目として復活させることだけが目的ではないのです。

まだまだ「バック・ソフトボール」は続くぞ! 北京オリンピックの金メダルが過去の記憶になりつつあるのはさびしいです。ぜひ、読者の皆さんもソフトボールの試合に足を運んでください。スピード感あふれるソフトボールに魅了されて、きっと応援したくなりますよ。

巨人のチョーさん

2009年12月「e-resident」掲載~「第2回 ワールドベースボールクラッシック(WBC)」チャンピオンリング贈呈式

去る11月17日に「第2回 ワールドベースボールクラッシック(WBC)」のチャンピオンリング贈呈式が行われたため、わたしも出席してきました。メジャーリーガーの出席者は岩村明憲選手だけでしたが、世界チャンピオンになった面々が久しぶりに集結しました。われわれスタッフも、本物の宝石ではないけれど形は同じで名前も入ったチャンピオンリングをいただき、1カ月間一緒に戦った仲間たちと喜びを分かち合いました。

彼らはドラフト会議を経てプロ野球選手になりました。松坂大輔選手やダルビッシュ有選手のように、スーパースターとしてプロ入りした選手もいれば、そうでなかった選手もいます。結果を出さなければいつクビになるか分からない厳しいプロの世界。プロに進むかアマチュアにとどまるか、悩んだ選手もいたでしょう。一見、華やかそうに見えるプロの世界ですが、数年で去っていく選手の方が多いのですから、「プロ野球」という道を選択するには、皆それぞれ勇気や決断が必要だったはずです。

―ドーハでの出会い

今年のNPB(日本野球機構)ドラフト会議で気になる選手が一人いました。長野(チョウノ)久義選手です。長野選手は日本大学4年のとき、北海道日本ハムから4巡目指名を受けました。巨人入りを熱望していた彼は、それを拒否し、社会人野球のホンダに入りました。

社会人野球に入ってからも彼は成長しました。そのころにドラフトで希望入団枠制度が廃止されたため、2年後に巨人が指名してくれることを祈りました。しかし、昨年ロッテから2位指名を受け、考え悩んだ末、それも拒否しました。今シーズンはさらに大活躍して、今夏の都市対抗野球では打率5割7分9厘で首位打者賞を獲得し、チームを13年ぶりの優勝に導きました。そして今回のドラフトで巨人から1位指名を受け、とうとう念願の巨人の一員になることが決まったのでした。

長野選手とは、3年前にカタールのドーハで行われたアジア大会からの付き合いです。彼はまだ大学生でしたが、全員アマチュアで構成された全日本チームの一員に選ばれ、レギュラーとして活躍。当時のチームには、今回のWBCメンバーだったオリックスの小松聖投手のほか、中日の野本圭選手、楽天の長谷部康平投手、横浜の高崎健太郎投手など、後にプロ入りした選手が多くいました。わたしはチームドクターとして帯同し、選手村で彼らと寝起きを共にしました。

最初は「日ハムの指名を断った長野というのはどんな選手なんだろう」と思いました。世間一般では「どこの球団に指名されてもそこで頑張ります」と宣言する選手の方が爽やかですがすがしく感じられるものです。しかし、チームの中で長野選手はとても礼儀正しく、真剣に野球に取り組むさわやかな好青年でした。皆の話を一生懸命に聞き、一回りも年上の先輩選手たちからも「チョーさん」と呼ばれ、かわいがられていました。

―予期せぬプレゼントに

ドーハの選手村ではこんな“事件”もありました。朝、起床後の散歩と体操が日課だったのですが、選手村内のウォーミングアップ用グラウンドで体操を終え、皆で集まった時のこと。キャプテンの鈴木勘弥選手の掛け声で皆が一斉に長野選手を取り囲みました。次の瞬間、「チョーノ、誕生日おめでとう!」という発声とともに、それぞれが手にしたペットボトルの水を祝福代わりに長野選手に浴びせたのです。

突然の出来事に、びしょぬれになりながら呆然と立ちつくすも「ありがとうございます」と返す長野選手。皆はにこにこ大笑い。ドクターのわたしとしても「風邪をひくからやめろ」なんて野暮なことは言いません。チームが一体になった良い瞬間だなと、慌ててカメラのシャッターを押したのでした。

このアジア大会で日本チームは銀メダルを獲得しました。WBCと同様に全員がプロ選手で構成された韓国チームには、長野選手のサヨナラホームランで勝利し、金メダルを取れば兵役免除のはずだった韓国選手の夢を打ち砕きました。そして金メダルのかかった、やはり全員プロの台湾戦では、選手村で親交を深めた体操の富田洋之選手もスタンドに応援に駆けつけてくれました。9回まで1点リードしていたものの、惜しくも逆転サヨナラ負けを喫してしまいました。とても残念でしたが、皆で声を掛け合い、励まし合い、高校球児のような気持ちで戦うことができた素晴らしいチームでした。

―「巨人のチョーさん」になれ

長野選手も昨年は悩んだと思います。いろいろな人が多くのアドバイスをしたことでしょう。恐らく「巨人にこだわらずにプロへ行け」という意見が多かったのではないでしょうか。それでも、彼は自分自身が決断した道を進みました。

長野選手の素晴らしいところは、その間ずっと、プロから指名してもらえる選手であり続けたことだと思います。社会人野球の先輩たちからもかわいがられ、応援してもらえました。誰もプロに行くための腰掛けなんてことは言いませんでした。真面目ですべてにひたむきな長野選手だからこそです。

「巨人のチョーさん」と言えば長嶋茂雄終身名誉監督ですが、厳しいプロの世界でも頑張って、ぜひ新たな巨人のチョーさんと言われる選手になって欲しいです。

再び全日本の一員として今度はWBCの舞台に立とう! 応援してるぞ、チョーさん。

55.5%という数字がもたらす意味

2009年11月「e-resident」掲載~デンマーク、ヘルニング・レスリング世界選手権、ロンドン・体操世界選手権

外出張が続きました。9月はデンマーク・ヘルニングで開催されたレスリングの世界選手権に帯同、吉田沙保里選手は見事に世界選手権7連覇を達成しました。10月はロンドンで開催された体操の世界選手権。ご存じの通り個人総合で内村航平選手が金メダル、女子も鶴見虹子選手が日本の女子として43年ぶりのメダルを2つ獲得しました。

その間に1週間だけ日本に戻っていた10月2日に2016年の夏季オリンピックの開催都市がリオデジャネイロに決定しました。「2016年の東京オリンピック」は残念ながら実現しませんでした。

―支持率55.5%

体操の世界選手権でロンドンにいる間に、今回体操日本選手団の団長であった塚原光男さんといろいろな話をしました。「月面宙返り(ムーンサルト)」の元祖である塚原さんは、メキシコ、ミュンヘン、モントリオールと3回のオリンピックで金メダル5つ、合計9個のメダルを獲得し、現在は指導者として活躍されています。日本オリンピック委員会(JOC)でも理事、強化育成専門委員会の委員長として、ロンドンオリンピックに向けて指揮を取られています。

競技会場であるO2アリーナに併設されているスターバックスで、塚原さんはオリンピック招致のことを語りました。

「もちろん残念だったけれど、わたしがもっとショックだったのは55.5%という数字ですよ。われわれスポーツ界はこの数字を真摯に受け止めなきゃいけない」

つまり、国際オリンピック委員会(IOC)の調査で東京での支持率が55.5%であったこと、裏を返せば44.5%の人たちが東京オリンピックを積極的に望んでいなかったということです。これは、「だから負けた」というレベルの話ではなく、スポーツの素晴らしさ、東京でオリンピックを行うことの価値を国民に分かってもらえなかったということです。国民全員が一丸となってオリンピック招致を戦うことができなかった。このことを反省して、これからスポーツ界は努力を続けていかなければなりません。

 

―日本で開くオリンピックの価値

45年前、アジア初の東京オリンピックに接した日本人は、間違いなく目の前で行われるオリンピックに心を揺さぶられ、感動しました。競技に感動するだけでなく、さまざまな形でオリンピックに参加することによって、世界中から来た人々と交流し多くのものを得ました。世界に日本を知ってもらうこともできました。

このコラムでも時々書いているように、わたしはスポーツドクターとしてオリンピックなどの世界大会に帯同するたびに、たくさんのことに気付き、勉強させてもらっています。日本を改めて見直すこともできるのです。その喜びを日本の多くの人たちにも味わってもらえる、それが日本で開くオリンピックの価値だったと思います。「なぜ東京なのか」「なぜ2回目なのか」など国民に伝わりにくかったとの意見がありますが、それよりも素直に「日本でオリンピックをやりたいんだ」という熱い思いを伝えられなかった、熱い思いを持てなかった、それがリオデジャネイロとの一番の違いだったのではと感じます。

―人類に貢献、社会をより良く

開催都市が決定した翌日からコペンハーゲンでは、「国際社会の中でのオリンピックムーブメント」をメインテーマに、IOCなど世界のスポーツ関係者がオリンピックの将来について議論するオリンピックコングレスが15年ぶりに開催されました。これからIOCが世界の中でどのような役割を担い活動していくか、それを再確認する大会でした。

オリンピックムーブメントとは、「スポーツを通じて相互理解と友好の精神を養い、平和でより良い世界の建設に貢献する」というオリンピック精神の普及と、さらなる理解を得るための活動のことです。IOCは1894年にピエール・ド・クーベルタン男爵の提唱により、古代オリンピックの復興を目的として創設されましたが、4年に1度のオリンピックを主催するだけではなく、このオリンピックムーブメントの普及がIOCの最たる目的です。

1909年には、嘉納治五郎が日本人として初めてIOC委員に就任しました。精神修練、人間形成のための道として「柔道」を普及、発展させた嘉納師範は、オリンピックムーブメントが自らの教育的理想を実現させる道と考えました。今年は日本がオリンピックムーブメントに参画してちょうど100年という区切りの年でもあります。

東京オリンピック招致は残念な結果でしたが、やるべきことも見えてきました。人類に貢献し社会を良くするために役立てること、これこそがスポーツの価値です。それをもっと多くの人たちに分かってもらう努力をしよう、オリンピックムーブメントを普及させよう、そして、スポーツが今は好きでない人たちに向けても語りかけよう、そう強く思っています。

ソフトボール・斎藤監督との「声出し作戦」の思い出

2009年10月「e-resident」掲載~ソフトボールの斎藤春香監督とトークショー

長野のオリンピックスタジアムでソフトボールの斎藤春香監督とトークショーをしてきました。ご存じ、北京オリンピックで見事金メダルを獲得した、「世界一」の監督さんです。

米国との決勝戦、上野投手の力投、宇津木前監督の絶叫、わたしは野球日本代表チームのドクターとして帯同していたので、北京の宿舎で選手たちとテレビ観戦していました。ソフトボール選手たちの姿を見て、「よし、次はおれたちも」と思いました。あれからちょうど1年、あっという間です。

斉藤監督とはもう長い付き合いになります。彼女はアトランタ、シドニー、アテネと3回のオリンピックに選手として出場しました。わたしも、シドニー、アテネとソフトボールのチームドクターとして一緒にいましたから、気心は知れています。青森県弘前市の出身で、いかにも東北人らしい、真面目で黙々と働くタイプです。

―ベンチで2人並んで大声を出す

特に思い出深いのは、シドニーオリンピックのとき、ベンチの中で2人並んでひたすら大きな声を出しまくった、いわゆる「声作戦」の思い出です。

シドニーオリンピックが開幕し、わたしは初戦の前にあの宇津木監督に呼ばれました。

「こまっちゃん、あんたベンチに入ってもらうことになったから。ベンチに入るからには、何をやればいいか分かっているのでしょうね」。

すなわち、「ベンチに入るからには、チームの一員として、何でもやりなさいよ。声もしっかり出しなさいよ」というわけです。命令通り、ベンチから大きな声を出していると、宇津木監督は、今度は選手たちに言います。

「お前らー、小松先生より声が小さいじゃあねえかー」

つまり、初めからそのつもりなのです。一体感が出ます。さすが宇津木監督です。

ソフトボールの場合、そもそも登録できる選手が少なく、守備についているときはベンチには数人しか残りません。斉藤監督は指名打者なので守備につきませんから、いつもベンチにいました。ですから、ピンチになると「先生、そろそろ声作戦いきますよ」との合図で、いつも2人並んで声を出していました。特に、予選で米国を破った試合のことはよく覚えています、毎回ピンチの連続でしたが、耐えて、耐えて、ついに米国との公式戦で初勝利を手にしました。

ソフトボールは球場が狭いので、ベンチの声が打者によく聞こえます。「頑張れー」、「大丈夫だぞー」、「ナイスピッチング」とひたすら大きな声を出し続けることによって、打者の集中力をかき乱すのです。斉藤監督の話によれば、その後の世界大会で米国がまったく同じ手段をとってきたそうです。米国の選手に話を聞くと、「シドニーであれをやられて本当に嫌だった」とのこと。声作戦はそれなりの効果があったようです。そう考えると、自分も一緒に戦えたような気がしてうれしくなります。

―頑張ってきたから世界一になれた

毎日を大切に、頑張ってきた思い出話や、斎藤監督がソフトボールを始めたきっかけ、北京オリンピックのこと、ソフトボールのオリンピック復活への思いなど、話は尽きず、あっという間の1時間でした。「初めから夢があってそれを追い続けたわけではない。一日一日を大切にして、人との出会いを大切にして、頑張ってやってきたから世界一になれた」という言葉が印象的でした。

トークショーが終わった後、持ってきたオリンピックのメダルを皆に触らせてくれて、子どもたちの求めに応じてサインを書き続ける斎藤監督、その姿を見てまた感じました。あんなに有名になっても「もっとソフトボールを普及させたい、子供たちに夢を持ち続けさせたい」と一生懸命なのです。サイン会の予定でもなかったのに、その時間は軽く30分を超えていました。

斎藤監督が、懸命に子どもたちと接してくれるのは、ソフトボールの普及や、オリンピックでソフトボールを復活させたいという気持ちだけではありません。ソフトボールが大好きで、スポーツが大好きで、自分がそれで素晴らしい経験ができて、いろいろなことを勉強できて、その楽しさをもっと皆に味わってもらいたいと実感しているからです。

東京に戻って、2人で一杯やりました。酒豪の斎藤監督に付き合って、わたしはほとんど泥酔状態でしたが、彼女はまったく乱れることなく、店でもサインの求めに笑顔で応じていました。オリンピックから外されてしまったソフトボールですが、いつか復活して、また斎藤監督と祝杯を挙げたいなあと強く思ったのでした。

これは戦争ではない、スポーツだ!

2009年9月「e-resident」掲載~セルビア、ベオグラード・「第25回 ユニバーシアード競技大会」

10年前のNATO軍の空爆による傷跡が今も残るベオグラードの街。そこで出会った現地セルビア人の青年から大切なことを学びました。

セルビアの首都、ベオグラードで開催された「第25回 ユニバーシアード競技大会」は7月12日に閉幕しました。今回のユニバーシアードで、日本代表選手団は合計73個のメダル(金20、銀21、銅32)を獲得し、過去最高の成績でした。選手たちはたくさんのことを学び、これから立派なオリンピック選手に育って活躍してくれることでしょう。

前回のコラムでは、国際総合競技大会の役割として、選手村での生活という普段とはまったく違う環境の中で試合を行い、世界で勝てる選手になるためには、たくましさを身につけなければならないという話をしました。しかし、選手たちが学んだことは、試合に勝つためのことだけではありません。世界各国から集まった選手たちと試合会場だけではなく選手村でも過ごしたほか、ボランティアとしてお手伝いしてくれたセルビアの若者と接したことで、国際親善や世界の平和に関して多くのものを学び取ったはずです。

もちろん、勝つことは大きな目的ですが、これから国際スポーツ人として育っていく選手たちにとって、これらの経験もとても大切です。実際に日本代表選手団の編成方針や使命にも「参加各国・地域との国際・文化交流をはかり、友好を深め、国際親善・世界平和に寄与する」と明記されています。

―ボランティアスタッフとも仲良くする

選手村や競技会場では、チームごとに日本選手団の面倒を見てくれるボランティアのスタッフが付き添います。そのほか、競技の進行にかかわるスタッフ、輸送を担当するスタッフなど、さまざまなボランティアがかかわります。大会によっては、財政難であったり、人員不足であったりして、満足な大会運営が行われないことがあります。「試合会場に行くバスが時間通りに来ない」「練習時間が突然変更された」などということはしばしばです。

試合に勝つためには、そうした状況に対して抗議したり、自分たちの権利を主張したりすることも大事ですが、運営する側も「お金がないのだから仕方ないじゃない」「全員がプロではあるまいし、一生懸命やっているのだから許してよ」といった言い分があります。適当なところで折り合いをつけて、スタッフたちと仲良くすることも、まわりを味方にするという意味で重要です。

―セルビアの青年から学んだこと

われわれメディカルスタッフには、各競技会場を移動するための車の運転手としてデアンが付いて、世話してくれました。デアンは銀行のお抱え運転手として外国からのビジネスマンのために働いています。世界各国からベオグラードに若者が集うことを聞き、ボランティアに応募したのだそうです。

競技会場に向かう車の中でいろいろな話をしました。最初はちょっと堅い話が多かったのですが、ある日われわれの車の前をグラマラスなセルビア美女が横切りました。2人とも視線が集中し、お互い顔を見合わせてにっこり。以来、美人が通るたびに、わたしが「彼女もセルビア人?」と聞き、「もちろん、美女はみんなセルビア人だ」と答えるデアン。一気に2人の距離が縮まりました。女性の話題などは世界共通のようで、仲良くなるのに便利な道具です。

ベオグラードの街には、1999年のNATO(北大西洋条約機構)軍の空爆の跡が至るところに残っていました。最初のころ、彼は気を遣ってか、そのことについて何も語りませんでした。ある日、空爆で崩れかけたまま残っているビルの前を通りかかったとき、知ってはいましたが、あえてデアンに聞きました。

「あの壊れたビルは何?」

デアンは、ここぞとばかりに語り始めました。

「あれは1999年に米国に爆撃されたビルだ。政府の主要施設や警察関連のビルが爆撃されたんだ。でも、あいつらは病院まで攻撃した。何の罪もない市民や子供、医者や看護婦も皆死んだんだ」

次の会場に行くまでの間に、街中に残る爆撃の跡や誤爆された中国大使館、ユーゴスラビアの指導者であるヨシップ・ブロズ・ティトーが住んでいた家などを見せて回ってくれたのでした。ティトーの死後の政治的不安定、ユーゴスラビア解体、さまざまな民族対立や内戦、そしてNATO軍の空爆。それぞれの立場や主張はあるのだろうけれど、平和を求める気持ちは世界共通のはずです。日本人が外国人にヒロシマやナガサキを見てもらいたくなるのと同じ気持ちで、わたしを連れて回ってくれたのでしょう。

ちょうどその日の夜、男子バスケットボールのセルビア対米国がテレビで行われていました。競り合いの末、セルビアは2点差で米国に敗れました。会場は超満員、さぞ「憎き米国を倒せ」と観客が応援しているのかと思ったら、米国チームをブーイングすることもなく、良いプレーには拍手を送っていました。ちょっと意外で驚きました。翌日そのことをデアンに話したところ、彼は言いました。

「だってこれは戦争ではない。スポーツだ」


その通りだ! 世界ではいろいろな宗教や民族、文化の違いがありますが、スポーツはその中で共通のルールをもった、世界共通の文化なのです。スポーツの意義を改めて感じるとともに、自分の役割も再認識したのでした。