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ベオグラードでにぎるおにぎり

2009年7月「e-resident」掲載~セルビア、ベオグラード・第25回ユニバーシアード競技大会

今回はセルビア・ベオグラードで開催中のユニバーシアード競技大会の選手村から書いています。ユニバーシアードは、国際大学スポーツ連盟(FISU)が主催する全世界の学生の総合競技大会のことで、別名「学生のオリンピック」とも言われています。夏季、冬季大会とも2年ごとに開催され、日本では1967年に東京、1985年に神戸、1991年に札幌、1995年に福岡で開催されました。

今回の日本選手団は、陸上、水泳、サッカー、テニス、バレーボール、体操、バスケットボール、卓球、フェンシング、柔道、アーチェリー、テコンドーの12競技、総勢392人でベオグラードに乗り込みました。わたしは、日本選手団本部のメディカルスタッフの責任者として帯同しています。本部メディカルスタッフはトレーナー1人、ドクター3人の計4人ですが、個別にトレーナーやドクターを帯同させている競技団体もあります。

選手村の日本選手団宿舎に本部メディカルルームを設置し、日本から医薬品や医療機器を持ち込んで大概のことには対応できるようにしますが、レントゲンや血液検査などの精密検査が必要になった場合には選手村のクリニックで対処します。積極的に競技現場にも出向いて、試合前の対応を手伝ったり、試合後のドーピング検査に付き添ったりします。何より、大きな声で応援するのも仕事です。日本からこれだけ離れた地には、日本の応援団はほとんどいませんから、ドクターといえども貴重な応援団の一人。

日本選手団の中にはオリンピック選手もいますが、多くがこれからオリンピック選手を目指す若者たちです。オリンピックと同じように選手村での生活という、普段とはまったく違う環境の中でも力を発揮できる「たくましさ」を身に付けなければいけません。今回の選手村の食堂の食事も、毎日同じような、あまりおいしいとは言えないメニューが続いています。最高のコンディションで試合に臨むために、どんな食事でも腹一杯食べられる力、そして食べられなくなったときの準備も必要になります。そんなことを皆勉強しながら、世界で勝てる選手に育ってゆくのです。

―板長として活躍する鹿島コーチ

今大会は、さっそく男子体操チームが団体総合で3連覇を達成し、翌日の個人総合でも星陽輔選手が金メダルに輝きました。日本選手が活躍する中、体操会場には選手に付き添い演技を補助しアドバイスする鹿島丈博コーチの姿がありました。鹿島コーチはわたしがソフトボールのチームドクターとして帯同したアテネオリンピックで、たまたま体操チームと同部屋になって以来の付き合いです。鹿島コーチはアテネ、北京と2回のオリンピックに出場し、団体総合で金メダルと銀メダル、種目別の銅メダルと3つのオリンピックメダルを持っています。あん馬の名手で、2003年にアナハイムで行われた世界選手権では世界チャンピオンにもなっています。

しかし、けがにも苦しみました。アテネオリンピック後の2006年には左肩を手術、リハビリ後に復帰した2007年にも左手甲を骨折し手術、それを見事克服して北京オリンピックに出場し銀メダルを獲得。「けがの経験があったからこそ、いろんなことが見えてきて、強くなることができました」。笑顔で語る鹿島コーチですが、一流のアスリートの言葉には重みがあります。

昨年に引退し、指導者としてのスタートを切った鹿島コーチにとって、今回のユニバーシアードはその初陣ということになります。日本選手団宿舎の体操チームの部屋では「板長」と皆に呼ばれ活躍していました。前述した通り、食事面では何が起きても大丈夫なように日本からさまざまな食材、調味料、炊飯器などを持ち込み、時には地元のスーパーに買い出しに行き選手のために食事の支度をするのです。その点も体操日本の強さの秘密です。

苦労した経験から学んだこと

わたしも時々体操部屋にお邪魔して、板長の作った料理をごちそうになりました。さらには、弟子入りさせていただいて、おにぎりや日本そばの極意を教わりました。「今まで自分がしてもらったことを、今度は少しでも選手たちにしてあげたい」と語る鹿島板長。苦労した選手だからこそ、選手たちが何を考え、何をして欲しいと思っているのか、現在の自分の役割をしっかりとらえています。またまた勉強になります。

体操チームは競技を終え帰国しましたが、残してくれた炊飯器や食材を使ってさっそくおにぎりを握ってみました。試合前のバスの中でわたしの握ったおにぎりを食べた男子バスケットボールの選手たちは、韓国を相手に快勝、試合後に陸川章監督に挨拶をすると「先生ありがとう、おにぎりのパワーで勝てました」と応じてくれました。本当かどうかは分からないけれど、確かに、薬を処方するより皆が元気になるような気はします。

今回のユニバーシアードも残すところあとわずかです。おにぎり作りでも、そば作りでも何でもやって、日本選手が少しでも活躍できるように頑張ろうと思います。

アスリートを勝利に導く環境づくり

2009年5月「e-resident」掲載

スポーツ選手が世界の舞台で勝つために最高のコンディションを用意してあげるのがスポーツドクターの責務です。メディカルチェックなど医師としてのアプローチは当然のこと、食堂や風呂場でのちょっとしたコミュニケーションも軽視できません。

スポーツドクターの役割は「選手たちが最高のコンディションで練習や試合に臨めるようにするための手伝い」であることを前回書きました。今回は、オリンピック選手たちが日ごろどのようなメディカルサポートを受けているかについて紹介します。

わたしが勤務する国立スポーツ科学センター(JISS)は、文部科学省の「スポーツ振興基本計画」に基づき、「国際競技力向上」を目的として、2001年に東京都北区西が丘に設立されました。都営三田線の本蓮沼駅から徒歩10分、JRの赤羽駅あるいは十条駅からはタクシーでワンメーターという立地。「西が丘サッカー場」も同じ敷地内にあります。母体は「独立行政法人日本スポーツ振興センター」で、JISS以外にも、国立競技場の運営や、スポーツ振興くじ(toto)の収益を基にしたスポーツの支援なども行っています。

JISSにはスポーツ医学、スポーツ科学、スポーツ情報の3つの研究部があり、互いに連携して競技力向上のための事業を展開。医学研究部はJISS内にクリニックを持ち、日々トップアスリートのためのメディカルチェックや診療、研究などを行います。

―世界で勝つためのメディカルチェック

メディカルチェックとは、オリンピック選手のための人間ドックのようなもの。「最高のパフォーマンスを発揮するために何か医学的な問題点がないか」という観点でチェックが行われます。実際には、内科、整形外科、歯科の診察、アンチドーピングにかかわる問診や婦人科的問題点の問診、レントゲン、血液、尿、心電図、心エコー、呼吸機能などの検査、そのほか科学的な測定、栄養チェック、メンタルチェックなどを行います。そして「世界で勝てる選手になるための問題点」を洗い出し、それを選手にフィードバック。同時に、競技団体のメディカルスタッフや強化スタッフと連携をとって、その問題点の解決にもかかわります。問題点が解決できているかもチェックするのです。この点がとても重要です。

トップアスリート専門の外来診療も行われます。ここでは、内科および整形外科の診療に加え、非常勤スポーツ専門医による歯科、皮膚科、婦人科、耳鼻科、眼科、心療内科の外来があります。

選手たちを診察していると、自分の身体のことやコンディショニング、アンチドーピングなどにどのくらい興味があるか、理解しているのかが分かります。もちろん、オリンピックのメダリストレベルの選手たちは、自分で自分の身体を管理して、よいコンディションで試合に臨まなければ勝てないことを十分理解しています。

しかし、ジュニアの選手やこれからオリンピックを目指す選手たちは必ずしもそうではありません。例えば、最近受けた治療について聞いても、「治療内容がよく分からない」、「飲んだ薬の名前を答えられない」といった状況です。診察しながら指摘すべきだと感じた時は、「自分の身体を知ることがとても大事なのだよ。オリンピック選手たちは、飲んだ薬の名前をすぐ答えられるし、自分の身体のことをよく分かっている。そういうことも勉強しながらオリンピック選手を目指してね」と投げ掛けると、たいていの選手は目を輝かせながら真剣に話を聞いてくれます。

―寝食を共に「チームジャパン」の意識を創出

2008年には、JISSに隣接して、長年スポーツ界の悲願であったナショナルトレーニングセンターが開設しました。この5月からはネーミングライツが導入され、「味の素ナショナルトレーニングセンター(味トレ)」と呼称変更されました。味トレは各競技の専用練習場を備えた屋内外トレーニング施設、宿泊施設などを備え、JISSと連携を図りながら、スポーツ科学、医学、情報を取り入れた効果的なトレーニングを行って国際競技力向上を図ろうというものです。

宿泊施設は「アスリートヴィレッジ」と呼ばれ、約250人が収容可能。部屋には、バスケットボールやバレーボールなど体格の大きな選手でもゆったりと眠れる大きなベッドがあり、「サクラダイニング」というレストラン、「勝湯(かちのゆ)」というサウナ付きの大浴場、大小の研修室などを備えます。アスリートヴィレッジの名の通り、オリンピックの選手村をイメージした施設です。各競技間で連携を図り、同じ場所で練習し、寝食を共にすることにより、「チームジャパン」としての意識が目覚めます。味トレの開設にともないJISSクリニックへの来院選手も増加し、その役割が大きなものになっています。

―“空気が読める”能力が不可欠

わたしもしばしば、サクラダイニングで食事をしたり、仕事が終わった後に勝湯でひと風呂浴びたりします。そこにはさまざまな種目の選手たちや指導者がいますから、ちょっとしたコミュニケーションをとる場になります。さまざまな相談を受けることもあれば、「こんにちは」とただ挨拶するだけの時もありますが、そうした繰り返しが選手たちとの信頼関係を得る上で大事だと思っています。

ただし、積極的に声を掛け過ぎるのも禁物です。先日、勝湯である選手と2人だけだったことがありました。挨拶は交わしましたが、あえて話し掛けませんでした。一人で静かにゆっくりと風呂につかりたい時だってあります。選手たちは皆礼儀正しいですから、話し掛ければきちんと答えてくれるでしょう。でも、時にはわずらわしいこともあるはずです。そんな雰囲気を察知する能力もこの世界には必要。“うざい存在”にだけはならないよう気を付けなければなりません。

来月はセルビアのベオグラードで大学生のオリンピック「ユニバーシアード競技会」が開催されます。わたしも日本選手団の本部ドクターとして帯同します。次回は、ベオグラードからお届けします。

日本を元気にする

2009年4月「e-resident」掲載~第2回のワールドベースボールクラッシック(WBC)

―大きな感動は人を動かす

第2回のワールドベースボールクラッシック(WBC)、侍ジャパンは見事二連覇という結果で幕を閉じました。それにしても素晴らしい、劇的な優勝でした。

3年前の大会では、チームドクターとして決勝戦まで帯同し、優勝して紙吹雪舞うペトコパークに立つという貴重な経験をさせていただきましたが、今回は、宮崎で行われた代表合宿から東京ドームでのアジアラウンドまで帯同しました。アメリカにはついて行かなかったので、日本で気楽にテレビの前で応援しました。オリンピックの時など、いつも現地でチームと一緒なので、久しぶりに「日本での雰囲気や盛り上がり」を感じることができました。

3年前、2次予選でアメリカ、韓国に敗れ、もう日本に帰る用意でサンディエゴに移動した日、アメリカがメキシコに敗れた瞬間、みんなが部屋から飛び出してきて大騒ぎでハイタッチをしたことを思い出します。この純粋さ、一生懸命さがどれくらいテレビで伝わってくるのだろう、という目でも見ました。そして、テレビから伝わってくる選手たちの姿は、私が知っている選手たちそのものでした。

準決勝のアメリカ戦で大活躍したムネリン、川崎宗則選手の言葉にも感動しました。

「アジアラウンドの時から、ベンチですべて試合に出ていました」

彼は、ベンチで本当にいつも大きな声を出していました。彼の声はベンチだけでなく、ベンチ裏まで響き渡る程に。いつ呼ばれてもすぐに出られるように準備をしていました。スタメンで試合に出られなくても決してくさることなく、チームの中で自分の役割を理解し、一生懸命。彼のあの感動的な言葉は、決してマスコミや国民を意識して出た言葉ではなく、ありのままの彼の気持ちが言葉に出たものです。私が知っている川崎宗則そのものでした。

もしこれを読んでいる研修医の方たちは、「せっかくこの病院に研修に来たのに症例も少ないし指導医もきちんと教えてくれない」とか、「あー、やっぱり違う科を選べばよかった」とか、そんなことを思ったら、ムネリンの言葉を思い出してほしい。よくても悪くても、与えられた場所や環境でしっかり頑張っていたら必ず誰かが見てくれています。必ず、よかった、と思う時がきます。

イチロー選手の、ドーピング検査に関する発言、「最後にドーピング検査にあたってさらに疲れた」とか「またドーピング検査に当たっちゃった」なども、よかったと思います。

あれで、多くの人が、「WBCでもドーピング検査を行っているんだ」と認識したと思いますし、このエッセイで何度も書いてきたように、「日本のプロ野球選手はクリーンなんだ」という証明にもなりました。

今回日本にいて、「日本中がこんなに盛り上がって、普段野球をあまり見ない人でも話題にして、優勝してさらに大騒ぎだった」ことを肌で感じることができました。

「スポーツが日本を元気にする」ことを実感しました。

日本の様々なスポーツが強くなって、一流選手のプレイや頑張る姿を見て皆が感動して、スポーツに親しみを感じて、体を動かすようになって、仲間が増えて生きがいも持てて、大きな声であいさつをするようになって、生活習慣病も減って医療費も減って、地域も活性化して、みんなが楽しくなって、元気になって、それが私のめざすべき道なのだ、とあらためて感じました。

「そうだ、日本を元気にするためにまだまだ頑張るぞ」

スポーツにできること

2009年3月「e-resident」掲載~宮崎・ワールドベースボールクラッシック日本代表合宿

―スポーツの力

先週は、ワールドベースボールクラッシック(WBC)日本代表の合宿帯同で宮崎に行ってきました。

連日たくさんのお客さんで超満員、球場に向かう道路も大渋滞。3年前のWBCでは、福岡で合宿してから東京ラウンドに乗り込みましたが、これほどのフィーバーではなかったような気がします。

いつも打撃練習のときは、外野で球を追いかけて走りまわっているのですが、さすがに大観衆の前で無様な姿をさらけ出すわけにいかないので、今回はフェンスにくっついておとなしく玉拾いをしていました。

イチロー選手がフライを取ったり投げるたびに、お客さんは拍手喝采。確かに、試合ではあのレーザービームも一回見ることができるかどうか、しかし、練習では矢のような送球を何度も見ることができるのですから、徹夜してお客さんが並ぶのもわかるような気がします。

スポーツ選手の一つ一つの動きにみんなの目が釘付けになる、きっとWBCの本番では、日本中の何千万人という人たちが、勝負に一喜一憂し、真剣なプレーに感動するのでしょう。スポーツというのは本当に大きな力があります。

いったん東京に戻った2月23日に、渋谷の国連大学で「国際平和―スポーツを通じてできること―」というフォーラムがあり、参加してきました。バルセロナで銀、アトランタで銅、と2つのオリンピックでメダルを獲得した有森裕子さんが話をされました。彼女とのアトランタオリンピックでの話は以前このエッセイにも書きましたが、昨年の夏にもテレビ番組でご一緒させていただきました。国連人口基金親善大使でもある有森さんは、現在、NPO「ハート・オブ・ゴールド」の代表として、世界各国を飛び回り、希望をもって頑張ってゆくことを人々に訴え続け、さまざまな国際貢献、社会貢献活動をされています。

―医学が目指すもの

講演では、アトランタオリンピックのあと初めて訪れたカンボジア、アンコールワット国際ハーフマラソンでの体験、1年後に再びカンボジアを訪れてみんなが1年前のTシャツを着て一生懸命走っている姿を見て「スポーツの持つ力」を実感したこと、それをきっかけにして始めた様々な社会貢献活動、カンボジアでの体育の教科書づくり、HIV/AIDS予防教育の活動、など写真を交えて話してくれました。

FGM(Female Genital Mutilation;女性性器切除)の話もしてくれました。FGMとは古くからアフリカで行われている、子供や少女の外性器を切除する風習です。皆に押さえつけられ、麻酔もせずに、不衛生な状況でFGMは行われます。術中の出血や感染などの問題だけでなく、HIV感染や、術後の直腸ろう、精神的なトラウマなど、さまざまな後遺症に女性は生涯にわたって悩まされます。そして、いまだに毎年約300万人の少女たちがその犠牲になっているというのです。貧困で犠牲になるのは、いつも女性や子供です。

その「存在」だけでも、十分みんなに勇気や希望を与えてくれている有森さんなのに、もっともっと頑張ろうとしている。本当に素晴らしいなあ。

「私の生きざまに変わりはない」

「興味を持っていない人に興味を持ってもらえるように伝えるのが私の使命」

と、熱く語る姿が印象的でした。

以前から何度も書いてきたように、喘息の子供たちを勇気づけよう、と活動をしてくれているスケートの清水選手をはじめ、「スポーツに何ができるか」を考えて実践してくれているスポーツ選手はたくさんいます。余裕がなければできないことなのかもしれないですが、とっても素敵なことだと思います。

皆さんも、ぜひ、「医学に何ができるか、医学とは何なのか」もう一度考えてほしい。もちろん目の前の患者さんを治療することはとてもお大事なことだし、それができなければ始まらないのだけれど、医学が最終的に目指すところは、やはり世界の平和なのだと思う。

私も有森さんの講演を聞いて、「スポーツに何ができるか、医学に何ができるか」をいつも考えながらしっかりやらなきゃなあ、とあらためて感じたのでした。

新しい世界ドーピング防止規定

2009年2月「e-resident」掲載

―アンチドーピングに立ち向かう

2009年1月1日付で、「世界アンチドーピング規定(WADA code)」の改訂版が発効しました。ドーピング禁止薬物の禁止リストは毎年更新されるのですが、今回はアンチドーピングの憲法ともいうべき規定が改定され、より毅然とアンチドーピングに立ち向かう姿勢を示しています。

日本のスポーツ界では、ドーピングを行おうと考える選手はほとんどいません。これは、「正々堂々と戦う」、「ずるをして勝つのは卑怯者だ」という日本古来の「武士道精神」にもよるものかもしれません。ですから、日本においては、「風邪薬などにも含まれることのある興奮剤などで、うっかりドーピング違反になることを防ごう」といういわゆる「うっかりドーピング」対策のための教育が多くなります。私のところにも、「この薬を飲んでも大丈夫か?」といった問い合わせがしょっちゅう来ます。日本のアンチドーピング活動は、「性善説」に基づいて行う方が選手の理解は得られます。

しかし、世界はそうではありません。2004年に行われたアテネオリンピックでのドーピング違反は24件でした。そして昨年の北京オリンピックでは、今のところ9件のドーピング違反が明らかになりました。「今のところ」と書いたのは、保存検体の検査で、将来ドーピング違反が発覚する可能性もあるからです。もちろん日本選手団はでゼロでした。

まず、この「アテネで24、北京で9」という数字を見ただけで、日本人にとっては驚きです。オリンピック選手ともあろうものがこんなにずるをしているのか、と思ってしまいます。ところが、武士道精神など存在しない、勝つためには何をしてもよい、ばれなければよい、と考える人たちのいる多くの国に対しては、当然アンチドーピングの立場は「性悪説」をとらざるを得ないわけです。「アテネより北京でドーピング違反が減ったのは、選手たちがドーピングをしなくなったからではなく、ドーピング逃れをしているからだ」と考えてしまうのです。

国際レベルの選手たちは、試合の時だけではなく、1年中いつどこでも事前通告のないドーピング検査を受ける義務を負います。競技会外検査、いわゆる「抜き打ち検査」です。新しい規定では、この抜き打ち検査を重視する姿勢が示されています。

選手たちは、「居場所情報」という、いつどこで何をしているのか、という情報を提出する義務があるのですが、新しい規定ではより詳細な居場所情報の提出を求められるようになりました、1日のうちで60分間を指定して、その時間と場所にいつドーピング検査に来てもかまわない、という情報を提出しなければいけません。そして、居場所情報の提出を怠ったり、指定した60分間の場所にいなかった場合、それらが続くと禁止薬物が検出された時と同じようにドーピング違反となります。

―アンチドーピングの知識を

喘息の選手にとっても、より厳しいものに変更されました。何か病気を抱える選手が治療のためにドーピング禁止薬物を使用する場合には、TUE(治療目的使用に係る除外処置)を申請して、承認を得た上で使用することができます。喘息の場合には気管支拡張薬であるベータ刺激薬(サルブタモールやサルメテロール)の吸入は禁止薬物であるため、いままでもTUEの申請が必要でした。ただし、「気管支喘息」と病名を書くだけで使用が認められていました。新しい規定では、病名を書くだけではなく、詳細な病歴や、気道可逆性試験(スパイロメトリーを行い、気管支拡張薬を使って1秒量が12%以上増加することを示す)や気道過敏性試験(運動負荷試験やメサコリン試験で1秒量が低下することを示す)などの結果の添付を求められるようになりました。すなわち、客観的に喘息であることを証明しなければいけないわけです。メサコリン試験などは通常の喘息診療では行われる検査ではないですから、スポーツ選手だけに余分な検査が加わってしまいました。これも、世界では「喘息」とウソをついて、筋肉増強剤であるベータ刺激薬を使う選手がたくさんいるからです。

国際社会において文化や伝統が違うそれぞれの国が共通のルールで物事を進めるときは、同じようなことがたくさんあるのだろうと思います。ビジネスや政治の世界でもきっと同じですね。

いままでも、私はしばしばアンチドーピングのことについて書いてきました。これは研修医や医学生の人たちに、少しでもアンチドーピングの知識を身につけてほしいからです。なぜなら、選手たちから、「病気になって病院に行ったけれど、ドーピングのことがよくわからないからと言って薬を出してもらえなかった」とか「TUEを書いてくれと言っても何の事だかわからず相手にしてもらえなかった」というようなことをよく聞くからです。細かな知識は必要ないけれど、せめて「どこに聞けばわかる」くらいの知識を持っていてくれれば選手は助かります。

3年前、日本がアンチドーピングの世界条約を批准するにあたっての会議のために何度も文部科学省に行きました。その時、「国をあげてアンチドーピングに取り組むのであればすべての医者がある程度の知識を持つべきだ。一言でいいから医学教育にも取り入れてほしい」、「保健体育の授業にも一言入れたらどうだ」、「室伏選手の繰り上げ金メダルなんかは、正義が勝つ、という話として道徳の授業の材料に最適じゃあないですか」なんてことを発言したけれど、どうなっちゃったんだろう。たしか、「前向きに検討します」なんて答えていたような気がする。なるほど役人の答弁というのはこういうことなのか、とつくづく納得する今日この頃です。

ほろ酔いコンサートとゴスペラーズ

2009年1月「e-resident」掲載~加藤登紀子さん「ほろ酔いコンサート」

―加藤登紀子さんの「ほろ酔いコンサート」

毎年暮れに新宿のシアターアプルで行われるこのコンサート、客にはコップ酒がふるまわれ、ステージ上の登紀子さんも飲みながら語って歌います。6年前からはゴスペラーズのリーダー、村上てつやと一緒に来て、時には村上はステージに上がり登紀子さんと一緒に歌って、コンサートの後はみんなで一緒に酒を飲む、私にとっては暮れの一大行事になっています。そして、このコンサートは私にとって「特別な想い」があります。

誰もが、孤独で不安な青春時代、「自分はこれからどうなるのだろう?」、このままいけば医者になることが決まっていて、バスケットボールという打ち込むものがあった私でも、人並に、青春時代特有な孤独と不安がありました。「独りであること、未熟であること、これが私の二十歳の原点である」、高野悦子さんの残した言葉を読んで、感じ入っていたあの頃です。

大学時代のある日、下宿でテレビをつけると、登紀子さんがレポーターとして女子少年刑務所に訪れている番組がやっていました。

「人生でためにならない経験なんて一つもないのよ」

罪を犯した少女たちに語りかける登紀子さん。

人間加藤登紀子に対する興味が降って湧き、それから、登紀子さんの昔からのアルバムを買い、聞きまくりました。ちょうどそのころ、登紀子さんは「ほろ酔い行進曲」という本も出して、それを読んだらますます好きになって、次第に加藤登紀子は私の中で「神」となっていったのです。

「いつか行きたい」と思っていたほろ酔いコンサート、1986年の12月30日、研修医として東京に出てきた初めての暮れ、ついにチケットを手に入れることができました。

「ようやく神に会える」、そう考えただけで、いてもたってもいられなくなってしまった私は、開演時間の3時間も前に新宿に着いてしまいました。

「お登紀さんならゴールデン街しかない」

そう考えた私は、新宿ゴールデン街に向かいました。

早い時間でしたが、たまたまあいていた店にふらっと立ち寄り、「電気ブラン」を何杯も飲みました。「今から神に会える」と考えただけで恥ずかしくなってしまって、グイグイ飲みました。

2時間ほどで店を出た時にはかなりの泥酔状態、会場のシアターアプルに着いて、またコップ酒をもらい客席に着いてから一気飲み、そして会場が暗くなり、とうとう神が登場しました。

そこまでは記憶があります。そして、気がついたら会場のアンコールの拍手で目が覚めました。酔っぱらって、客席で寝てしまったのです。

来たくて来たくて仕方がなかった「ほろ酔いコンサート」だったのに・・・

本当に、おバカな私。

その後は、そんなバカな過ちを犯すことなく、毎年のように来ていたのですが、今から9年前、音楽のプロデュースをしている高校の同級生から電話がありました。

「ゴスペラーズっていう歌手の面倒を見てるんだけどさ、花粉症がひどくてレコーディングがうまくいかないのよ。ヨタ(高校時代の私のあだ名です)なんとかして」

その晩、初めてリーダーの村上てつやと新宿の焼き鳥屋で会いました。ゴスペラーズがまだ今ほど有名ではなかった頃です。花粉症の件はすぐに片がついて、その後はなぜか意気投合して遅くまで飲みました。話題はほとんど加藤登紀子さんの話とスポーツの話。そして、それがきっかけで私はゴスペラーズのチームドクターになりました。

―ゴスペラーズと一緒に

いつの間にか彼らは紅白にも出場する偉大な歌手となり、同時に村上は登紀子さんの歌を作ったり、レコーディングに加わったり、一緒にコンサートをやったり、と加藤登紀子とゴスペラーズがくっついてしまったのです。

前置きが長くなりましたが、そんなわけで暮れの「ほろ酔いコンサート」にはゴスペラーズ一族と毎年一緒に行くことになったのでした。

今年のコンサートも素晴らしかった。

孤独で不安で未熟で、お金がなくてもたくさんの夢があったあの頃をよみがえらせ、「でもまだまだ息がきれるまで走らなきゃだめよ」って尻を叩いてくれる。

私をはじめ多くの登紀子ファンは、彼女の歌や、語りに登紀子さんの生き方を感じ、そして自分の人生に重ね合わせるのです。しかし、登紀子さんの偉大なところは、そんな「懐かしさに浸っている私たち」を尻目に、さらに進化を続け、さまざまな歌を歌い続け、後ろなんて振り向かない。「懐かしさに浸っているんじゃないわよ」ってな感じです。やっぱりスゲーなあ。

コンサートの後、村上はレコーディングがあるとのことで行ってしまいましたが、ゴスペラーズの演出家の小池さんと二人でしみじみ飲みました。いつまでもいつまでも夢を持ち続けなきゃだめだ、なんてことを話していたような気がする。

「来年はどんなことがあるのだろう」、とわくわくしながら、またしても、ほろ酔いならぬ泥酔状態で家に着いたのでした。

喘息と香水

2008年12月「e-resident」掲載~高崎・「二宮清純のぜんそく人間学」対談

―二宮清純のぜんそく人間学

先日、「二宮清純のぜんそく人間学」の対談で、高崎へ行ってきました。

この対談シリーズは、スポーツジャーナリストの二宮清純さんがナビゲーターを務め、喘息とかかわりの深い著名人をゲストに招いて、喘息について語り合うものです。

今回のゲストは、ソフトボールの金メダリスト、峰幸代選手です。峰選手はあの鉄腕上野投手の球を受け続けたキャッチャーですが、小さいころから喘息があり、北京オリンピックでも吸入による管理をつづけながらコンディションを維持して、見事金メダル獲得に貢献。ドーピング関係の申請のことなどもあり、JISSで定期的な検査をしながら経過を見ていました。私も、峰選手の主治医として、また、スポーツ医学の専門家として、対談に招かれたのです。

二宮さんも幼い頃から喘息で、長年つらい症状に悩まされてきたようです。そんな二宮さんが、スポーツ選手や各界の著名人の中に喘息をコントロールして活躍されている方が多いことを知り、喘息をいかに乗り越えるかというテーマで対談することによって、患者さんを勇気づけたいという熱意からこのシリーズが始まりました。かつては、「喘息であること」を隠す選手も多かったのですが、最近は、喘息であることを公表し、「喘息でも一流選手になれる」ことを示すことによって、「喘息で苦しんでいる子供たちを勇気づけよう」「喘息の正しい診断・治療のために一肌脱ごう」と考えてくれる選手たちが増えてきました。

約束のホテルで二宮さんと二人で待っていると、峰選手が登場しました。

「おー、ミネコ、元気だったかー」

「なんだー、先生も来てたんですかー」

うっかりして、峰選手に前もって連絡するのを忘れていました。オリンピック後は取材も殺到して、だいぶ取材慣れしてきたという彼女でしたが、今回は「喘息」の話題、それなりに緊張していたようです。私の顔を見て、だいぶ表情が緩みました。

さっそく対談が始まりました。

子供のころの峰選手の喘息にまつわるエピソードや、喘息を克服するための様々な工夫、さらにはオリンピックの決勝戦のことなどに話題が及びました。

―香水の匂い

そして、喘息の人間にとってたばこの煙がとても嫌だという話になった後、二宮さんが言いました。

「私なんかは香水のにおいもダメなんですよね。きれいな女性たちがいる店に行っても、香水がきついとそれだけで息苦しくなります」

「そうそう」と峰選手。

そこで思わず私は言ってしまったのです。

「僕は、女性の香水のにおい、大好きです」

本当にどういうわけか女性の香水のにおいが好きなのです。子供のころから、デパートの1階の化粧品売り場の中を通るのが好きでした。学生時代、ふらっと入ったキャバレーの女の子の香りが上着についていて、店を出た後も、その香りを感じただけで幸せな気分になりました。

「香水大好き」という私の言葉にすかさず二宮さんが反応しました。

「今年見た映画でとてもいい映画がありましたよ。パフュームって題名だったっけなあ。ヨーロッパの映画で、最高の香水を作るために女性を殺めてしまう調香師の話で、でも最後はその最高な香水の力にみんなひれ伏してしまうんですよ」

さっそく、DVD借りてきて観ました、「パヒューム」。

うーん、何ともインパクトのある映画でした。いい臭いだけでなく、悪臭やいろいろなにおいが画面からこぼれてきました。普段、「わかりやすい昔の任侠映画」を浅草の名画座でしか観ることのない私にとっては、ここでこの映画を解説するのはとても難しい。でも、香水にひれ伏す気持ちはわからないわけではないなあ、などと感じたのでした。

スポーツでもいろいろなにおいがあります。レスリングの「マットのにおい」、体操の「タンマのにおい」、水泳の「塩素のにおい」などなど。そんな選手たちのにおいは、診察室でも感じることがありますが、いわゆる「汗臭い」選手はほとんどお目にかかりません。みんな練習の後はすぐにシャワー浴びて清潔にしています。

医学的にはもちろんとてもいいことなのだけれど、世の中最近は、「においを消すこと」にみんな一生懸命。子供の頃によく感じた、あの「病院のにおい」も最近はなくなったなあ。喘息の人は香水のにおいも嫌だと思うわけだし、「無臭であること」を不快に思う人はほとんどいないのだろうから、これからもどんどん無臭時代になってゆくのでしょうね。

でも、それって、どんどん個性がなくなってゆくこと?などと感じながら、「そういえば最近は女性の香水の匂いもご無沙汰だなあ」と、しみじみしてしまったのでした。

バリのビーチゲーム

2008年11月「e-resident」掲載~インドネシア、バリ・「第1回アジアビーチゲーム」

―スポーツ大会で国を元気に

10月18日から26日まで「第1回アジアビーチゲーム」がインドネシアのバリで行われました。私もOCA(アジアオリンピック評議会)のメディカルコミッティーのメンバーの一人として仕事をしてきました。
オリンピックと同様、4年に一度、OCAの主催で「アジア大会」が開催されます。これは、日本が参加するオリンピックに次いで大きな「国際総合競技大会」です。1994年には日本の広島で開催されましたし、一番近いところでは2006年にカタールのドーハで行われました。私も今まで何度かこの「アジア大会」についてはエッセイで書いてきましたが、オリンピック種目はもちろんのこと、アジアに特徴的な競技や、これからオリンピック種目をめざす競技なども行われます。セパタクローやカバディーなどです。

近年はその規模がどんどん大きくなってきたため、「インドアゲーム」と「ビーチゲーム」とが4年に一度のアジア大会とは別に行われるようになりました。つまり、大きな国際総合競技大会を開催するには「大会を運営するための能力」が必要であり、なによりお金もかかります。オリンピックはもちろんのこと、アジア大会でさえ大きな国でなければ開催できない状況になってきたのです。そこで、一部の競技を分けて開催し、多くの国でアジア大会を開催できるようにしたのです。
これは、「スポーツの国際化」という観点からすると大変よいことです。何度も書いているように、「スポーツは世界共通のルールをもった文化」なのですから、大国でなければ総合競技大会を開催できないとなれば、スポーツの意義がうすれます。さすがにオリンピックを開催するにはその能力は不可欠ですが、それを補う形の大会を作ったということです。あまりメジャーではない競技にとっても、総合競技大会が行われることにより元気が出てきます。そして、第1回のビーチゲームが今回バリで行われました。

期間中のOCAのメディカルコミッティーの仕事は、「大会が十分な医療体制の下で行われているか」、「きちんとしたドーピング検査体制が敷かれているか」などをチェックし、組織委員会に様々なアドバイスを送ることです。毎日メンバーが手分けして会場を回り、ドーピング検査に「スーパーバイザー」として立ち会い、その結果を翌朝の会議で報告します。会議には必ず大会組織委員会の担当者も同席するので、その場で解決策を求めることも多いのですが、いつも担当者が「その通りに改善したいのだけれど、でもお金が・・・」と泣きべそをかきながら答えるのが印象的でした。

―マイナースポーツも応援したい

ビーチバレー、トライアスロン、セーリングなどのオリンピック種目以外にもビーチハンドボール、ビーチレスリング、ビーチサッカー、ビーチセパタクロー、サーフィン、パラグライディングなどなど、合計19種目の競技が行われたのですが、どの会場もビーチを簡易的に区切って、仮設の観客席を設けてといった質素なものでした。各会場に設けられたドーピングコントロールステーションも仮設テントでつくられた簡単なもので、部屋もせまく、日中はほとんど蒸し風呂でした。あまり暑いと選手もなかなか尿が出ませんし、「選手の権利を守る」という観点からは問題であるため、もちろん改善要求を出すのですが、そうすぐに改善されるはずもありません。ただみんな一生懸命にやっていました。だから毎朝の会議でも「こんな状況の中でみんな一生懸命にやっているよ。まあしょうがないじゃない」という発言を数多くしましたが、他のメンバーからは「いい加減な日本の医者」と思われていたかもしれません。でも、日本だって昭和33年にアジア大会を東京で開催した際には似たような状況だったのでしょうから。やっぱり、温かく見守ってあげなきゃ。

ドーピング検査はDCOと呼ばれるドーピング検査官が行いますが、今回の大会では地元のDCOのほかにアジア各地から経験豊富な国際DCOも助っ人に来ました。日本からも日本アンチドーピング機構(JADA)から二人のDCOが派遣され、経験の浅い地元のDCOやボランティアの人たちにとっても優しく教えていました。とくに中東から来たDCOたちが地元の人たちを「召使い」のように扱う姿とは対照的で、みんな、「日本人は優しい」「日本人は素晴らしい」と言っていたのが印象的でした。こんなところから国際親善や友好が生まれるなんだよなあ、とあらためて感じました。
さて、今回の日本選手団は9競技に出場したのですが、その中でもサーフィンが金銀銅それぞれ2個ずつ合計6個のメダルという素晴らしい結果を残しました。みんなチャラチャラした雰囲気もなく、真剣に競技に取り組む姿が印象的でした。これからも応援したくなりました。おそらく日本ではほとんど報道もされなかったのでしょうけれど、これをきっかけに競技スポーツとしてきっと発展してくれると思います。

 

大相撲の大麻問題とアンチドーピング

2008年10月「e-resident」掲載

―検査は人権を守るためにある

大相撲の大麻騒動がありました。北の湖理事長が辞任し、力士たちが解雇され、騒ぎは収まったかにも見えます。しかし今回の騒動では気になる点がいくつかあります。

一つは、今回の大麻騒動がドーピング問題と混同されて報道されていることです。確かに大麻は競技会検査での禁止薬物ですが、「大麻使用という社会的問題」と「ドーピング問題」とを一緒にするから話がややこしくなっています。

大麻所持の現行犯で逮捕された若ノ鵬は日本の法律を犯すという社会的な問題を起こしました。ですから相撲協会がどのような処分を下してもかまわないでしょう。しかし、露鵬と白露山の二人は「抜き打ちの尿検査」で大麻を吸引していたとされ解雇処分を受けました。この「抜き打ち尿検査」というのは「ドーピング検査」とはまったく違うものです。そもそも相撲協会にはドーピング防止に関する規約もなければ、制裁の規定もありません。もちろん大麻を吸引していたのが事実だとしたら社会的な制裁はうけるべきなのでしょうが、「選手の人権」という点からすると今回の流れはちょっとおかしい。「これから尿検査を行う」といきなり言われた時点で、よく素直に力士たちは承諾したものだと思います。お相撲さんたちはそれだけ「世間知らず」ということなのでしょうか。「医者の世界」も似たようなものかもしれませんが・・。

スポーツ界のアンチドーピングは、その憲法とも呼ぶべき「世界アンチドーピング規定」が根本に存在し、「禁止薬物や禁止方法」のみではなく、「検査のやり方」や「検体の分析の仕方」、「病気の時に禁止薬物を用いる場合の申請の仕方」、などがルールとして定められています。制裁に関してもルールで決まっていて、基本的には初回の違反で2年間の出場停止、二回目で永久追放、という非常に重いものです。このような重い制裁があるからこそ、検査自体が大変厳重に行われます。

まずは、ドーピング検査官と選手、選手の付き添い以外は入ることのできない「ドーピングコントロールステーション」で検査が行われます。選手は採尿カップを3つ以上の中から自分で選び、検査官の監視下で採尿します。次に自分の尿を、自分で、ボトルに移し替え封をします。密封されたボトルは分析の直前までだれも開封することはできません。そして、ドーピング検査の公式記録用紙とともに認定を受けた検査機関に送られ分析が行われますが、検査機関でも誰の尿かわからない仕組みです。

きちんとしたドーピング検査というのは、採尿から分析までの過程で、「絶対に他人の手が入ることができないような仕組み」になっています。このように検査自体がしっかり行われなければ、その結果をもって制裁を加えること出来ないというのがドーピング検査のルールです。「誰かに仕組まれる」というようなことが無いように、選手の人権を守るためのルールでもあるのです。ですから、厳重に行われたのかどうかわからない「尿検査」の結果をもって制裁を加えるというのは、本来のドーピング検査からするとおかしなことです。

―しっかりとしたルールづくりを

もう一点は、今回の騒ぎでは検査自体が「犯人探し」的になっていることです。アンチドーピングを根付かせるために一番大事なことは、「自分たちのスポーツを守るためのアンチドーピング」ということを選手たちに理解してもらうことです。ドーピング検査が「犯人探し」ととらえられてしまうと、選手たちにしてみれば「余計なことをしてくれて」「俺たちの仕事を奪う気か」といった気持になって、本来のアンチドーピングの意味を理解してくれなくなってしまいます。「真面目に正々堂々と戦っている選手の権利やスポーツそのものを守る」ためであるということを、しっかり現場に解ってもらうことが大事です。

約1年前に、アメリカ大リーグで「ミッチェル・リポート」騒動がありました。元上院議員のジョージ・ミッチェル氏が大リーグの薬物汚染の実態調査結果を実名入りで公表したのです。その中には、有名メジャーリーガーの名前とともに、日本のプロ野球(NPB)にかつて在籍した選手や、現在も在籍している選手の名前も含まれていました。NPBにも火の粉が及びかねない事態となりました。しかし、その時点でNPBではすでにドーピング検査を本格導入しており、「日本のプロ野球はアンチドーピング活動に毅然と取り組んでいる。きちんとしたルールのもとにドーピング検査も行っている」という一言で、それ以上騒ぎにはなりませんでした。大リーグはきちんとアンチドーピングに取り組んでいなかったから、さまざまな「疑惑」が湧き出てきたのです。この一件はNPBのアンチドーピング活動にとって意味のある一件でした。日本のプロ野球関係者たちは、「アンチドーピングに早く取り組んでいてよかった」と感じ、「アンチドーピングにしっかり取り組むことがプロ野球を守ることになる」ということを実感したのです。それ以来、選手も球団関係者もドーピング検査にとても協力的になりました。選手たちも誰一人、面倒なドーピング検査に対して文句を言わなくなりました。試験導入からわずか3年で、「プロ野球ではドーピング検査が当たり前のもの」になりました。

薬物疑惑や八百長疑惑といった様々な疑惑は間違いなく大相撲の価値を貶めます。現に秋場所では懸賞の本数が3割減ったと聞きます。クリーンなイメージがないとスポンサーも離れてゆきます。これは、プロスポーツにとっては致命的です。

「大相撲を守るために」、早くきちんとしたアンチドーピングのルールを作って、取り組んでほしいと思います。

ソフトボールの金メダル

2008年9月「e-resident」掲載~北京オリンピック、女子ソフトボール

―次につなごう!

オリンピックが終わりました。野球チームのドクターとして帯同した私にとって、4回目となる北京オリンピック、長かったような、短かったような、不思議な2週間でした。

金メダルをめざして戦った星野仙一監督率いる野球チーム、メダルを獲得することができませんでした。帰国してみると、どの週刊誌もバッシング一色です。「結果が全て」のスポーツの世界ですから、結果が出せなかった以上、何を書かれても仕方がない、そのことは監督も選手たちもよく分かっています。そして、結果が出せなかった責任はコンディショニングにかかわった私にもある、ということです。

東京での合宿を含めるとちょうど3週間、選手たちと一緒に生活したわけですから、いろいろなことは感じました。ただ、チームの一員であった私が、その「敗因」や「問題点」に関して、評論家のようにいろいろ言ってはいけない、というより、考えてはいけないのだと思っています。

実際には、過酷なペナントレース、オールスターゲームからほとんど休む間もなく合宿・オリンピックに突入した選手たちにとって、最高のコンディションを維持するのは大変なことではありました。しかし、その日程は前から決まっていたことですから、私の立場としては、そのような中でいかにメディカルとして、「課された役割」を果たせたかどうかです。その点に関しては、きちんと検証して、反省もして、次につなげなければいけない。

来年3月には第2回のワールドベースボールクラッシック(WBC)も開催されます。北京で野球チームが味わった屈辱を晴らせるように、星野監督の言っていた「日本の素晴らしい野球を世界に知らしめるため」に、機会が与えられれば、しっかりお手伝いしたい、と思います。

―悲願の世界一

そんな中、前回のエッセイでも「斉藤監督の存在感」と書かせてもらった、ソフトボールの金メダルはうれしかったです。シドニー、アテネとオリンピックに一緒に行かせていただいた私にとって、「世界一」という夢をみながら頑張ってきた選手、スタッフの気持ちがよくわかります。たくさん人の「思いが詰まった」金メダルです。

ソフトボールの決勝は、野球が宿泊していたホテルのラウンジで、選手やスタッフと一緒にテレビで見ました。ちょうど、野球チームは翌日に準決勝を控え、午前中は練習でしたが、午後は休みでした。ソフトボールの決勝戦の会場に足を運びたいとも思ったのですが、今回自分は野球のドクターとしてオリンピックに来ている、大事な試合を前に、そんなことができるわけがないわけで、テレビの前での応援となりました。

上野投手の力投、みんなで戦っているという連帯感、金メダルが決まった瞬間、思わずこみあげてきてしまいました。肩車される上野投手を見ながら、アテネでの苦しそうだった宇津木監督のことがよみがえりました。

アテネではいろいろなことがありました。

「打倒アメリカで金メダル」が目標でありながら、予選からなかなかうまくゲームを運べないいらだち。宇津木監督の愚痴を毎日のように聞いていました。そして、オーストラリアに敗れ、決勝戦に進めなくなって、ベンチ裏で選手たちを前に宇津木監督は泣きながら言いました。

「みんな、申し訳ない」

その言葉を聞いて、その場で泣き崩れる選手たち。

今回の決勝戦で、先制のきっかけとなる二塁打を放った三科選手の「カントクー」と泣き叫ぶ姿が頭に焼き付いています。もちろんその中に、今回の斉藤監督もいました。

やはり、チームスポーツの活躍は、みんなに「元気」を与えてくれますよね。

昨晩もテレビをつけると上野投手が出ていました。

「努力は裏切らない、ということが本当にわかった」

「最後まであきらめなくてよかった」

たくさんのスポーツ選手と接していて思います。みんなみんな努力していて、でも、この喜びを味わうことのできる選手はごくわずかです。選手たちの多くが、努力が報われるような喜びを味わうことができるように、そして、それを見たみんなが、元気をもらうことができるように、私がやらなきゃいけないことはまだまだあるなあ、と感じたのでした。

ところで、大気汚染が懸念された北京でしたが、空は澄み、息苦しくもなく、町や会場にはゴミ一つ落ちていませんでした。さすが中国、というか、まさに中国、でした。