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スポーツとコミュニケーション

2007年10月「e-resident」掲載~アゼルバイジャン・レスリング世界選手権

―ワッハッハ

8月から約2ヶ月間、バンコクのユニバーシアード、ドイツの体操世界選手権、アゼルバイジャンのレスリング世界選手権、と連荘で続いた海外帯同がようやくひと段落。

体操の世界選手権では女子団体が無事にオリンピックの権利を獲得しました。男子団体は惜しくも銀メダルでしたが、個人戦では補欠だった水鳥選手が大活躍。ドイツから帰国後2日後にレスリングの世界選手権が開催されたアゼルバイジャン・バクーに出発、世界最強軍団女子は7階級のうち4階級で金メダルを獲得し、相変わらずの強さを世界に見せつけました。万全とはいえない体調でもしっかり勝つ、さすがでした。

アゼルバイジャンはカスピ海西岸にあり旧ソビエトですがイスラム圏です。オイルマネーで潤っているためか、町の中はあちこちで新しいビルが建設されていました。3月にやはりレスリングで訪れたシベリア・クラツノヤルツクとは雰囲気が全く異なり、「ソビエトは本当にいろいろな国、人種の集まりだったんだなあ」と実感できます。

 

今回、女子の団長として参加されたアニマル浜口さんともたくさん話をしました。例の「気合だー」や「ワッハッハッハッハ」もその「こころ」をうかがい、単なるカメラの前だけのパフォーマンスではないことがよくわかりました。最終日、「またまた疑惑の判定」で浜口京子選手が敗れた最終日、選手のドーピング検査の付き添いを終えてウォーミングアップ会場に戻ると、選手数人と一緒にアニマル浜口さんも待っていてくれました。

 

「先生、今回もいろいろ世話になったお礼に、今日は例の笑い方をお教えしましょう。ワッハッハ」たまたま近くにいたアゼルバイジャンの少年二人と一緒に並べさせられて、その前にはアニマル浜口先生、少年たちと大きな声で、「ワッハッハッハッハ、ワーッハッハッハッハ」と笑っているうちにだんだん爽快な気分になってきて、調子に乗って続けていたら、たくさんの人が集まってきてみんなで大笑い。アゼルバイジャンとの国際親善に貢献です。

スポーツ選手は、言葉は通じなくても、このように外国選手たちとコミュニケーションをとることが得意です。そこには、「挨拶」「相手の顔や目を見る」「スキンシップ」といった、まあ考えれば当たり前のコミュニケーションのポイントがあるように思います。

―スキンシップが大切

スポーツにかかわる人たちは、よく握手をし、肩を抱き、ハイタッチをします。特にレスリングの人たちは身体を触るコミュニケーションが好きです。今回の世界選手権でも選手村となったアブシャロンホテルのエレベーターの中で、見知らぬ外国の選手やコーチから何度も握手をされ、肩をもまれました。ロサンゼルスオリンピックの金メダリスト、現在は日本レスリング総監督の富山英明さんも私と話すときは必ず私の腕や肩を触っています。

確かに、赤ちゃんとのコミュニケーションもまったく同じですよね。言葉は通じなくても、笑いかけたり、表情を察したり、肌をふれあって、ちゃんと意思の疎通ができます。そんなことを考えていたら、電子メールのことを思い出しました。私は基本的には電子メールが嫌いです。特に、考えながら返事を書かなければいけないメールはとても苦手。

もちろん、外国にいることが多い私にとっても、通信手段としての電子メールはとても便利です。でも、メール文化により、人どうしのコミュニケーション能力が失われつつあるような気がしてなりません。

廊下であったとき「先生、メールしておきましたから」って言われて、「なんで今ここで話せないの?」って感じたことありませんか?

単なる事務連絡ならともかく、メールで「思い」を」正確に伝えるのは不可能です。相手の表情が見えない、目が見えない、聞き返せない、おまけに身体にも触れることが出来ない。だから、電子メールがあまり好きになれないのです。というわけで、職場内では、「事務的な連絡以外はなるべく電話か直接会って話すように」というルールを作っています。

まあ、今回は話がどんどん脱線してしまいました。スポーツというのはルールがあってみんなで高めあう世界共通の文化ですから、人と人とのコミュニケーションを含めて、いろいろなことが学べるなあ、という結論にしちゃいます。

この2ヶ月間、とてもハードで少々疲れたけれど、やっぱり今回もいろいろな事があって楽しかったなあ。


ユニバーシアードと体操の世界選手権

2007年9月「e-resident」掲載~~ドイツ、シュトゥットガルト・体操世界選手権

―メディカルスタッフの仕事

今回は、ドイツのシュトゥットガルトからです。来年の北京オリンピック予選も兼ねた体操の世界選手権のチームドクターとしての帯同です。部屋では、いよいよ明日に迫った団体予選を前に、世界選手権に初めて出場する学生の沖口誠選手が「プレッシャーだーッ」と叫びながら、今井トレーナーの治療を受けています。

今年の夏も帯同が続きました。

8月2日から20日までは、バンコクで開催された第24回ユニバーシアード競技大会の日本選手団の本部ドクターとして帯同しました。 ユニバーシアード大会は世界の大学生の総合競技大会です。2年ごとに開催され、今回は15競技、選手役員合わせて約400人の日本選手団が派遣されました。バンコク郊外のタマサート大学に選手村が作られ、そこを拠点に毎日熱戦が繰り広げられました。

今回の日本選手団本部のメディカルスタッフはドクター3人(内科2人、整形外科1人)とトレーナー1人で構成され、私が責任者を務めました。それぞれの競技団体でトレーナーやドクターを帯同させているので、本部メディカルスタッフの主な仕事は、それら競技団体のメディカルスタッフの取りまとめ役、ということになります。

実際には、1)選手全員の派遣前メディカルチェックの結果から選手の医学的問題点をまとめて把握する、2)選手村に日本選手団として持ち込む医薬品やトレーナー機材のリストを作成してあらかじめ大会組織委員会に提出する、3)あらかじめ調査した現地のメディカルにかかわる情報を各競技団体のメディカルスタッフに流して周知させる、4)ドーピング禁止薬物使用の有無の調査やTUE(禁止薬物使用のための申請)の提出、選手のアンチドーピングにかかわる知識を把握や教育、5)大会期間中に開催される大会組織委員会のメディカルミーティングでの情報の周知徹底、6)日本選手団本部医務室での医務活動、7)競技現場に出向いての医務活動やドーピング検査の付き添い、などが本部メディカルスタッフの仕事です。

―コンディションを管理

選手村の日本選手団宿舎の中に医務室とトレーナー室が設けられ、日本から様々な医薬品や治療器具を持ち込みます。まあ、大抵のことなら日本選手団医務室だけで事は足りますが、選手村の中には組織委員会が準備したクリニックもあります。

オリンピックをはじめとする国際総合競技大会の雰囲気は独特なものがあります。ホテルを利用した通常の国際大会とは異なり、選手村での長期にわたる生活、あまりおいしいとはいえない選手村食堂、過密なスケジュール、精神的なプレッシャーなどが原因で、体調を崩す選手も多いうえ、ユニバーシアードは多くの選手たちがはじめて経験する国際総合競技大会ですから、これらの経験をもとに一流のオリンピック選手へと育ってゆきます。そういう意味では、「最高のコンディションを保つ」ことがまだへたくそな連中ですから、メディカルも忙しくはなりますが、逆に言うと「教え甲斐」もある世代ということもできるわけです。

9年ぶりに訪れたバンコクはだいぶ近代化していました。1998年にバンコクでアジア大会が開催され、私は野球チームのチームドクターとして訪れました。選手村は今回と同じタマサート大学、9年前は衛生状況もあまりよくなくて、気をつけていたにもかかわらず選手の多くが細菌性腸炎にかかりました。現在、ジャイアンツで活躍する阿部慎之助選手がまだ学生で、決勝の韓国戦の試合直前、ひどい下痢で球場のトイレから出てこなくてあせったことを思い出します。今回もそこらへんを想定して、たくさんの輸液や抗生物質を持ち込みましたが、そのような症状を起こす選手はほとんどいませんでした。

さて、体操の世界選手権です。男子は来年の北京オリンピックに向けた大事な試合、女子は北京オリンピックへの団体戦の出場権をかけた大事な戦いです。ドイツに入ってからの大会前の練習で、不運なことに鹿島丈博選手が手の甲を骨折してしまって日本に帰国しましたが、代わりに出場するのがやはりアテネオリンピックの金メダリストの水鳥寿思選手。日本の男子体操の層の厚さを感じさせます。

昨晩は開会式が行われました。どんな結果になるのか。昨日のミーティングでも、具志堅幸司監督は「チームの中の自分の役割をしっかり果たせば大丈夫だ」とおっしゃいました。私も、チームドクターとして課された役割をきちんと果たすことだけを考えて、あと1週間がんばりたい。

終わったころには、きっと声の出しすぎでがらがら声になっているでしょうけど。



熱中症のお話

2007年8「e-resident」掲載~熱中症について

―熱中症は予防できる

ここ数日暑い日が続いています。もうすぐ梅雨も明けるのでしょう。毎年この季節になると、必ず、テレビ局や新聞社から「熱中症について話を聞きたい」という取材の申し込みがあります。熱中症の危険性や救急処置、水分補給の重要性などをマスコミで取り上げていただくのは、熱中症の知識の普及という面ではとてもありがたいことなので、なるべく対応するようにしています。

熱中症は、その重症な状態である熱射病に陥ると、死亡する可能性が高い病気です。とくに、スポーツ活動中の熱中症による死亡事故は、いまだに毎年おきていて、多くの中学生、高校生が亡くなっています。「いってきまーす」といって元気に家を出た子供が、次の日には変わり果てた姿で家に戻ってくるのです。家族としてみれば、「どうして?」という気持ちになるのは当然で、最近は訴訟の件数も増えてきているようです。熱中症の知識は昔に比べて普及してきているにもかかわらず、死亡事故が減らないのは、近年の都市化によるヒートアイランド現象や地球温暖化の影響もあります。スポーツによる熱中症事故は無知と無理によって健康な人に生じるものであり、適切な予防措置さえ講ずれば防ぐ事ができるものです。

そもそも私が、熱中症にかかわることになったのは、今から約15年も前のことでした。それまで日本においてはスポーツ活動中の熱中症予防に関する具体的な予防指針が出されておらず、悲惨な熱中症事故を何とか防ごう、という目的で、平成3年に日本体育協会に「スポーツ活動における熱中症事故予防に関する研究班」が設置されました。そのとき、現在私の国立スポーツ科学センターの上司である、川原貴先生に声をかけていただき、研究班に加わらせていただきました。研究班では、スポーツ活動による熱中症の実態調査、スポーツ現場での測定、体温調節に関する基礎的研究などを行い、平成6年には「熱中症予防8か条、熱中症予防のための運動指針」を発表し、以後、啓発活動に力を入れてきました。このガイドラインは、日本体育協会のホームページでダウンロードできますのでご覧いただけたらと思います。

今では考えられないことですが、あのころは「熱中症」という言葉もそれほどポピュラーではありませんでした。「日射病」という言葉のほうが一般的で、「熱中症って何かに熱中しすぎること?」なんて聞かれたこともあります。実際、自分自身も高校時代サッカーをやっていたのですが、「練習中に水を飲みすぎると走れなくなるからなるべく我慢しろ」といわれていました。ちょうど高校1年のとき「ゲータレード」なるものをはじめて手にして、「これは運動中に飲んでもおなかが痛くならない水だ」と先輩に言われたことを思い出します。

―未だに死亡者は減っていない

地道な活動の甲斐があり、最近では、「暑い時期にスポーツをする場合にはこまめな水分補給が大事」ということは知識としてはかなり浸透してきました。しかし、実際には、スポーツの現場で適切な水分補給ができていない場合もまだ多いのです。

クラブ活動中に、「自由に水を飲んでもいいよ」といっても、「先輩よりも先に飲めない」、「すぐ近くに水がない」、「水ばかり飲んでいたらだらしがない」といった、水分補給を邪魔する要素がまだまだ存在します。スポーツの現場では、いつでも水分補給ができる環境を作ってやる、いつでも水分補給ができる「雰囲気」を作ってやる、という事が大事です。脂肪肝の患者さんに、「運動したほうがいいですよ」なんていったって誰もやりゃしない、運動ができる環境、仕組みを作ってやることのほうが大事なことと同じです。こう考えると、また「仕組みを作ること」に行き着いちゃいました。

これを読んでいる研修医の皆さんは、きっと「一人前の医者になること」に熱中していることでしょう。その気持ちを持ち続けてくださいね。私も、この年になって、まだまだ「熱中できるもの」がたくさんあって、幸せだなあ、と感じているわけです。


やっぱりアンチドーピング

2007年7月「e-resident」掲載~ドーピングについて

―再びアンチドーピング

わが国のアンチドーピングに深くかかわる私としても、言いたいことがいくつかあります。

前回も書きましたが、スポーツ界がアンチドーピングに真剣に取り組む理由のひとつは、「スポーツがクリーンであることを証明し、スポーツそのものを守る」ためです。

昨年、野球のWBC(ワールドベースボールクラッシック)のときに、今年からメジャーリーガーになった岩村明憲選手と、この事に関して話をした事があります。彼と始めて会ったのは、1999年にオーストラリアで開催されたインターコンチネンタルカップのとき。彼はまだヤクルトのファームにいて、身体も現在のあのムキムキな肉体とは程遠い普通の身体でした。厳しい練習と自己管理によって、プロに入ってからたくましい肉体を作り上げたのです。彼は私に言いました。

「プロ野球にドーピング検査が導入されてから、毎日の薬にも気をつけなければいけなくなったし、試合後の検査もめんどうです。しかし、もっともっとしっかりやってほしい。自分のようにドーピングとは無関係な選手たちにとっては、この鍛え上げた肉体がドーピングによるものではないことを証明することになるからです」 。

ドーピング検査を導入して2年目になる日本のプロ野球選手たちも、確かに最初は抵抗もありましたが、現在ではドーピング検査をすることにより日本のプロ野球がクリーンであることを証明できる、プロ野球や自分の価値を守る事ができる、ということを理解してくれて協力してくれています。

プロもアマチュアもスポーツであることに変わりはありません。プロスポーツは観客を集めて利益を上げることを目的としたビジネスだからドーピングをしてもよい、ということにはなりません。それを主張するのならば、「スポーツ」といわなければいいのです。スポーツというのは、ルールがあって仲間がいて競い合い高めあう、世界共通の文化です。ドーピングという「ずる」を許したら、すばらしいスポーツの価値がなくなってしまう、これはプロスポーツでも同じことです。

―時には過酷

試合後のドーピング検査がいやだと思う選手はいるかもしれません。しかしドーピング検査を拒否したら、それだけでドーピング違反として制裁が課されます。もしドーピング検査を拒む事が許されたとしたら、それはドーピング検査ではなく、ただの尿検査です。確かに、負けて落ち込んでいる選手を検査しなければいけない場合もあります。決勝で勝った選手と負けた選手が、同じドーピング検査ステーションに入ることもあります。アテネオリンピックの時、オーストラリアに負けて決勝戦に進めなくなった試合のあともドーピング検査がありました。こぼれ落ちる涙を必死にこらえているソフトボール選手のドーピング検査に付き添いました。さすがに、声をかけてあげることもできませんでした。

スポーツの世界は「結果がすべて」の世界です。想像を絶する過酷なプレッシャー・不安・緊張など、私自身もスポーツの現場で数多く体験してきました。当然そういったメンタル面のコンディショニングに関して、ドクターができること、しなければならないことはいくつもあります。

ちなみに現在、カフェインはドーピング禁止薬物ではありません。「監視物質」といって、ドーピング検査の際にチェックはしていますが、ドーピング違反にはなりません。ただし、ドーピング禁止薬物リストは毎年更新されますので、今後再び禁止薬物になる可能性はありますが…。

スポーツとアンチドーピング

2006年6月「e-resident」掲載~アンチドーピングについて

―アンチドーピング活動

今回はアンチドーピングの話をしたいと思います。

皆さんもご存知のとおり、ドーピングとは「薬やその他の不正な方法を用いて競技力向上を図ること」です。スポーツ界においてドーピングはスポーツそのものをだめにしてしまう行為であり、アンチドーピング活動は、われわれスポーツドクターが真剣に取り組まなければいけない仕事のひとつです。

アンチドーピング運動は、自転車のロードレースで興奮剤を使用した選手がレース中になくなったことをきっかけに始まりました。ベルリンの壁崩壊以前、組織的にドーピングが行われた国では、いまでもドーピングの副作用に苦しんでいる元選手たちがたくさんいます。このように、「選手の健康を守るためにドーピングをやめよう」というのが、ドーピングが禁止されるひとつの理由ですが、決してそれだけではありません。スポーツの世界でドーピングを許してしまったら、「スポーツそのものの価値がなくなってしまう」のです。

スポーツの世界は、結果が求められる厳しい世界。オリンピックのメダリストになるかならないかで、人生が全く変わってきます。ドーピングがからだによくないなんてことはわかっていても、それに手を染めてしまう選手たちの気持ちもわからないではありません。「ドーピングをしてからだが壊れても自分のことなんだから人には関係ないじゃないか」という選手の本音もあるかもしれません。しかしそうではないのです。

スポーツは人々に夢や感動を与えます。一生懸命練習して、努力して、そして結果を勝ち得た選手たちをみて、子供たちも「ああなりたい」と感じます。そこに、ドーピングという「ずる」は許されないのです。ドーピング行為はスポーツ固有の価値を損なうものであり、スポーツ界がアンチドーピングに真剣に取り組むことは、「スポーツがクリーンであることを証明し、スポーツそのものを守る」ことになるのです。

ですから、スポーツのすばらしさを感じ、国をも変えうるスポーツの力に魅せられてこの世界に身を投じている私にとっても、アンチドーピング活動は大変重要なものです。

―ドーピング検査

実際、ドーピング禁止物質にはさまざまなものがありますが、これは世界アンチドーピング機構(WADA)が世界共通のルールとして禁止リストを定めています。蛋白同化ステロイドなどの筋肉増強剤、興奮剤、エリスロポエチンなどのホルモン、利尿剤やドーピングを隠すための隠蔽剤、β刺激剤、糖質コルチコイドなどの薬物がドーピング禁止物質。これらは、日常の医療行為で使われるものも多く、薬局で手に入る風邪薬などにもこれらの禁止物質が含まれているものが数多くあります。

ですから、ドーピングをしようと思っていなくても、うっかり服用した風邪薬に含まれているエフェドリンが検出されればドーピング違反になってしまうこともあります。このような、「うっかりドーピング」を防ぐために、選手たちに薬の知識を教えることもわれわれの仕事ですし、実際選手からは、「この薬は飲んで大丈夫か」といった問い合わせも数多くきます。

さらに、トップアスリートは、いつドーピング係官がやってくるかわからない競技外検査(抜き打ち検査)に応じる義務もあり、そのために自分がいつどこにいるかという、居所情報を定期的に提出しなければいけません。このように、ドーピング検査はドーピングなんて考えてもいない選手にとってはとても面倒なものです。しかし、選手たちは、「自分たちが置かれているスポーツを守るために必要なこと」と理解して、協力してくれています。

そして、今年になってアンチドーピングを取り巻く日本の状況がまた変化しました。ユネスコが定めた「スポーツにおけるドーピングの防止に関する国際規約」を昨年12月に日本政府が締結し、この規約は本年2月から発効しました。中身は難しいのですが、要するに、「国を挙げてアンチドーピングに真剣に取り組む」ということを日本政府が宣言した、ということです。夏のオリンピックを2016年に東京に誘致できるかどうかも、日本がどれだけアンチドーピングに取り組んでいるかを評価されます。そして、日本アンチドーピング機構(JADA)が中心となってその仕組みが徐々に形作られてきています。

日本のプロ野球も、アンチドーピングに本格的に取り組み始めました。2006年からドーピング検査を導入し、プロ野球選手を対象に、アンチドーピングの啓発活動にも力を入れています。日本の人気スポーツであるプロ野球のアンチドーピングに対する姿勢が社会に与える影響はおおきく、また、プロ野球が真剣にアンチドーピングに取り組むことは、「日本のプロ野球はクリーンである」ということを証明することにもなります。そして、選手たちもそれらを十分に理解し協力してくれています。

まあ、なんだか今回はドーピングの講義みたいな内容になってしまいました。しかし、細かな内容は別にして、「ドーピングをしようなんて考える選手はほとんどいない日本」でも、ドーピングの啓発活動をして、ドーピング検査もたくさんやっていることを示さなければ、日本が真剣にアンチドーピングに取り組んでいる、と世界からは評価されないのです。

今後は、医学教育の中にもこのアンチドーピングが取り入れられなければいけない時代が来ると思います。

スポーツに親しむ仕組みを作る

2007年5月号「e-resident」掲載~山中湖、所属するバスケットボールチームの春季合宿

―バスケットボール再開

先日、私が所属するバスケットボールチームの春季合宿があり参加してきました。合宿は山中湖の近くの体育館で行われ、土曜日の午後と日曜日の午前、それぞれ3時間まじめに練習。

学生時代は麻雀とバスケットと勉強??に明け暮れた私ですが、さすがに医者になってからは忙しくてバスケットに打ち込む余裕もなく、そのような機会もありませんでした。しかし、15年ほど前、週1回企業の医務室にアルバイトに行っていたのですが、その企業のバスケットチームに入れてもらい、時々練習したり区民大会に参加したりしていました。ただそれも、ほとんど練習にも出られず、また最近は、若い人たちと一緒だとだんだんついてゆけなくなり、サボりがちでした。

今年に入り、「40歳以上が参加するバスケット大会があるのでチームに入らないか」とのお誘いを受け、新しいチームに入れていただき、再びバスケットを一生懸命やり始めました。土日を含め月に5日ほどの練習に励んでいます。

私が再びバスケットに打ち込めるようになった理由を分析してみると以下のようになると思います。

1)    バスケットをするのが楽しい

しばらくあまり練習していなかったせいもあり、まじめに練習していると、「うまくなっている」と実感できる。試合もあるので、「チームの一員として一緒に戦っている」と実感できる。「試合に勝つ」という目標がある。いつも接しているオリンピック選手とまではいかなくても、せめて、「裸になってもはずかしくないからだになろう」という目標もある。

2)    バスケット以外も楽しい

私のチームはいろいろな職種の人たちの集まりです。当然、練習のあとは居酒屋で一杯ということになるのですが、それが楽しい。チームのみんながとてもフレンドリー。

3)    バスケットをしようと思う「時間と心の余裕」ができた

大学病院時代に比べ、時間の余裕は同程度の忙しさですが、ある程度自分でコントロールできるようになりました。そして、何より、心の余裕ができました。

4)    音頭とりをしてくれる人に感謝

ひとりではバスケットはできません。仲間を集めたり、練習場所を確保したり、バスケット以外の楽しみも企画したり、と音頭を取ってくれる人が必要です。私のチームでも、みんながそれぞれ役割を分担して、「バスケットを楽しくできる環境」を作ってくれています。感謝、感謝。

すなわち、私が現在バスケットに打ち込めるのは、「バスケットを楽しくできる環境、仕組みが出来上がっている」からなのです。スポーツにはルールがあって仲間がいてその中で自分自身を高めるという、文化的な要素を持っています。これは、スポーツに親しむ上でとても重要な要素だと感じます。

―スポーツに親しめる環境とは

以前から、生活習慣病の予防に適度な運動が大事であることが叫ばれてきました。最近は「メタボリックシンドローム」なる言葉も大はやりです。私自身も、消化器内科医時代に脂肪肝の患者さんに、「もっと運動したほうがいいですねえ」なんてよく言っていました。

みんな、「運動したほうがいい」なんてことはわかっているのです。でもできない。じゃあ、なぜできないのか、それを考えて、みんながスポーツに親しめる仕組みを作らなきゃあいけない。子供のころからスポーツに親しむ仕組み、仕事や家庭が忙しい30代、40代でもスポーツができる環境づくり、「心の余裕」ができる社会、そういった「社会の仕組み作り」が大事だと思います。それらは、「医学」ではない、という人もいるかもしれないけれど、「みんなが健康でいられる」ということが医学の最終目標であるのなら、「仕組みを作る」ことに全く無関心ではいられないはずです。

最近話題の、「医療崩壊」「お産ができる病院がどんどんなくなってゆく」「つかれきった勤務医がどんどん辞めてゆく」なんて問題も、まさしく、「医療の仕組み」に問題があるのだと思うし、そのような「医療の仕組み」を考えたり立て直したりする事が、インパクトファクターの高い雑誌に論文が載ること以上に評価されてもいいのになあ。

トップアスリートにかかわっている私も、日本の競技スポーツが強くなることによって、みんながスポーツを身近に感じてスポーツに親しめるようになる、と信じてがんばっています。「スポーツに親しむ仕組みを作る」ためにも、まだまだやらなきゃいけない事がいっぱいあります。そのうちどんどん忙しくなって、また、自分がバスケットに親しむ余裕もなくなっちゃうのかもしれないけど、まあいいか。

女子レスリングワールドカップ

2007年4月「e-resident」掲載~ロシア、クラスノヤルツク・女子レスリングのワールドカップ

―女子レスリング王国日本

3月18日から25日まで、ロシアのシベリア地方、クラスノヤルツクで開催された女子レスリングのワールドカップに帯同してきました。

レスリングのワールドカップは、世界のトップチームによる団体戦。全階級(7階級)にわたる総合的な実力を競う大会で、世界選手権と並ぶビッグ大会。日本の女子は過去6回の大会のうち5回優勝していますが、今回は北京オリンピックでも金メダルが期待される吉田沙保里選手ら世界チャンピオンではなく、若手選手中心で臨みました。北京オリンピックの後も見据えた、「女子レスリング王国日本」を確固たる物にするための作戦です。

今回出場した7人の選手たちは、それぞれジュニアの世界チャンピオンや今年の1月におこなわれた天皇杯の全日本チャンピオンですが、吉田や伊調、浜口といった「とても強いお姉さんたち」がいるので、なかなか日の目を浴びません。しかし、今回、シニアの世界大会という数少ない与えられたチャンスで結果を出そうと一生懸命。試合に勝って大喜びする姿や、実力を発揮できずに悔し涙を流す姿を目の前で見ながら、「これからもしっかりサポートしてやらなきゃ」と強く感じたのでした。

シベリア・クラスノヤルスクは思っていたほどは寒くありませんでした。夜中に凍りついた道路の雪は、日中は解けて泥のようになっていましたから、おそらく日中の気温は0度を越えていたと思います。また、市内には水道管と同じように、暖房用の熱湯が各家庭や施設に供給されているそうで、屋内や体育館はとても暖かでした。かつて、この地を訪れたことのあるコーチによれば、「昔に比べたらだいぶきれいな近代化された町になった」とのことでした。

試合の結果は、初日の予選リーグで、ベラルーシ、ドイツをそれぞれ6対1で撃破し、翌日の決勝に進出しました。決勝の相手は、オリンピックチャンピオンを含むベストメンバーで臨んだ中国、残念ながら、1対6で敗れて銀メダルでした。詳しくは、日本レスリング協会のホームページ(http://www.japan-wrestling.jp/)を見ていただけたらと思います。

―初めてのレスリングシューズ

今回の大会、私ははじめてレスリングシューズを用意していただきました。もちろん、レスリングの経験もない私ですから選手たちとスパーリングもできませんが、レスリングシューズをはいて練習マットの上に立ち、「壁になる」という仕事をしました。試合前の練習会場は狭いので、ひとつのマットの上で何組もがスパーリングしなければいけません。選手たちは必死ですから、隣でスパーリングしている選手が目に入らないときもあります。ぶつかったり、交錯して怪我でもしたら大変。そのために、選手たちの間にはいるのです。木名瀬監督に、「先生、間に立っていてくれ」といわれて、そうしましたが、同じマットの上に立っているだけで、「一緒に戦っている」という一体感を感じる事ができます。特に今回は団体戦ですから、もちろん、監督の命令もその点を意識してのこと。

決勝戦のあとドーピング検査に立会い、そのあとホテルでバンケットがありました。今回の大会、ボランティアで日本チームの面倒を見てくれたオーリャーさんとイリアさんというロシア美女二人にウォッカの一気飲みを強要され、「これも国際親善」と調子に乗ったのが運のつき、私は泥酔状態でバタンキュー。翌朝は4時15分集合で帰国の途に着くことになっていたのですが、気がつくと時計は4時。大慌てでメディカルバックと自分のスーツケースに荷物を詰め込みロビーに向かいました。

空港までのバスの中、何か気分がわるいので脈を取ってみたら、二段脈、三段脈の連発で、たぶん心室性期外収縮だろうなとは思いながらも、ちょっと心配でバスの中ではずーっと脈を取っていました。やはり、不整脈というのはあまり気持ちがいいものではありませんなあ。選手たちに、「やっぱりドクターが一番手がかかる」などといわれては大変、と具合が悪いのをひた隠しにしながら、無事日本に到着したのでした。

 

※レスリングシューズをはいてマットの中央でこちらを向いて立っているのが私です。


なぜ私がこの道を選んだのか

2007年3月「e-resident」掲載~沖縄・プロ野球7球団のキャンプ地を巡り

―プロ野球のキャンプがスタート

先日は沖縄で行われている7球団のキャンプ地を巡ってきました。昨年から日本のプロ野球にも導入されている、「ドーピング検査」の説明のためです。「なぜ日本のプロ野球がアンチドーピングに真剣に取り組まなければいけないのか」を、選手たちに話してきました。みんな、キャンプでへとへとなのだろうけれど、眠りもせずに私の話に耳を傾けてくれました。

昨年まで社会人野球にいて今年からプロの世界に飛び込んだ連中とも久しぶりに会って、話をしましたが、みんな口をそろえて、「とても疲れます」と言っていました。そりゃそうですね。生活もがらりと変わって、結果を出さなければいつクビになるかもわからない厳しいプロの世界。プロに進むかアマにとどまるか、悩んだ選手もいたでしょう。一見、華やかそうに見えるプロの世界ですが、数年で去ってゆく選手のほうがよほど多いのですから、「プロ野球」という道を選択するには、みなそれぞれ勇気が必要だったはずです。

― 「道を選ぶ」

そう聞くと思い出される言葉があります。

昭和61年の3月、卒業式のあと松本の駅前のホテルで開かれた、医学部の卒業祝賀パーティーでのことです。

当時、信州大学の医学部長だった皮膚科の高瀬吉雄教授が、「無事卒業して医者としてスタートする君たちに、ぜひ言っておきたい事がある。これからの医者人生の中で、道を選ばなければいけないときが必ずある。そのときは、迷わず、困難な道を選びなさい」と挨拶されました。

お恥ずかしい話ですが、わたしは、このとき初めて「この人が高瀬教授だったんだ」と知りました。まあ、授業にあまり出た記憶がないからあたりまえです。

そんな私をよく卒業させてくれたなあ、とも思うのですが、ただ、この卒業パーティーでの高瀬先生の「困難な道を選びなさい」という言葉は、6年間、講義で聞いた誰の言葉よりも鮮明に私の頭の中に残っています。話を聞きながら、「これから自分にはどんな選ぶべき道が待っているのだろう」とわくわくしながら聞いた事がよみがえります。

確かに、医者は他の職業に比べて、卒業して社会人になってからも「道を選ぶ」事がたくさんあり、その点は、恵まれていて幸せだなあ、と感じます。私にも、いままでにいくつかの選ばなければいけない道がありました。

道を選ぶときには、かならず、高瀬先生の「困難な道を選びなさい」という言葉は頭をよぎりましたが、自分自身、困難な道を選んできたかどうかはわからない。この言葉は、「苦労するほうがそのあとの充実感や達成感があって、いい医者人生になりますよ」という意味だと私は理解していますが、そもそも、どちらの道が困難かどうかもわからない事が圧倒的に多い。「えいっ」と決めてしまうしかないのです。

―楽しいと思えるかは自分次第

東大病院時代、ベッドサイドの実習で担当した学生たちとよく飲みに行きました。学生たちと話をすると、「どうして小松先生は消化器内科を選んだのですか」と、必ず質問されました。

深い考えや判断があって自分の道を選んできたわけではないのです。地元の出身大学に残らずに東京に出てきたのは、「一度は都会に出てみたい」という気持ちでした。研修した日赤医療センターでは、大変お世話になった消化器内科の庵政志先生から、「お前は東大に入局しろ」といわれて、「すべて先生にお任せします」と答えて、東京大学の第二内科がどんなところかも知らずに入局しました。入局後、どういうわけか肝臓の類洞壁細胞の研究をしていた私は、赴任していらした小俣政男教授から、「胆膵の臨床をやりなさい」といわれ、内視鏡が自分にむいているかどうかも考えずに、試験管を置いて、ERCP屋になりました。あえて言えば、2年前、大学病院をやめてスポーツの世界に身を投じた事が私としては初めての決断だったのかもしれない。

だいたい、自分が何にむいているのか、なんてことは、やってみなければわからない。「この道を選んでよかった」と思えるかは、むしろ選んだ後、がんばるかどうかで決まってきます。結婚なんてまさにその最たるもので、「この女性が最高か」なんて事は、冷静に考えたら、本当はよくわからない。冷静に考えてはいけないし、お互いに冷静ではない状態になっているから結婚できるのでしょう。

「だから、君たちも、ここで俺と酒を酌み交わしてしまった事が運のつきだ。なにも考えずに消化器内科に決めなさい」、なんてことを、学生に話していたような気がします。

このエッセイを今読んでいる学生や研修医諸君、私のエッセイを読んでしまった事が「運のつき」です。あきらめて、スポーツ医学をやりなさい。「楽しい」と思えるかどうかは、君たち次第ですが、たぶん、きっと、楽しい。オススメしたいな。

忘れられない研修初日の思い出

2007年2月~イタリア・トリノ・冬季ユニバーシアード大会

―スポーツ選手も注射は苦手

イタリア・トリノ行われていた学生のオリンピック、冬季ユニバーシアード大会が終わりました。また、今週からは中国・長春で冬季アジア大会がはじまりました。冬の競技では、大会中にインフルエンザを発症した場合に成績に影響するのはもちろんのこと、隔離もままならない選手村の状況を考えて、インフルエンザの予防接種を行います。私が勤務する国立スポーツ科学センターでは、このような競技会に派遣する前のメディカルチェックを行っていますから、その際にインフルエンザの予防接種も行う、ということになります。

たくましい体つきの選手たちでも、やはり「注射」は苦手のようです。みんな、緊張した顔つきで私の前に腕を差し出します。終わった後、「前より痛くなかった」とか「思ったほど痛くなかった」と選手に言われると、うれしくなったりもします。

「注射」や「採血」というのは、おそらく、医者になってからはじめて行う医療手技です。そして、患者さんにとっては、医者から最もたくさん受ける医療行為。時として、毎日行われるこの行為がうまくいくかどうかは、患者さんにとって、とても重大であることは、言うまでもありません。

「採血を失敗しない」「点滴をいつも一発で入れてくれる」といったことで、患者さんの信頼を勝ち得た経験や、また、その逆の経験がある医者はとても多いと思います。

この「注射」に関して、私には、今から21年前、研修医として勤務した初日の忘れられない思い出があります。

大学を卒業してから東京に出てきた私は、渋谷区にある日赤医療センターで研修をスタートさせました。あのころ、あまり多くなかった、「スーパーローテート研修」があったことも魅力でしたが、大学を卒業するまで長野県を離れた事がなかった私は、「一度は大都会に出てみたい」という、医学とは全く関係のない、ふしだらな気持ちもあって、六本木にも近いこの病院を選んだのでした。

私の研修医生活はその日赤医療センターの8階西病棟で始まりました。消化器内科、血液内科、アレルギー内科の混合病棟でしたが、多くの患者さんが朝晩点滴を行っていました。もちろん針を刺すのは研修医の仕事です。消化器内科にはもうひとつ病棟がありましたから、そちらも含めて、毎日のべ80人くらいの患者さんに点滴の針を入れていました。

回診などを終え、9時過ぎから、看護婦さんと二人で、「点滴行脚の旅」が始まります。50人以上いるのですから、午前中は、ほとんどそれに費やしていたように思います。

研修初日、なんとか初回の点滴入れを終えて、ナースステーションでカルテを書いていた私に、さきほど一緒に回っていた看護婦さんが声をかけました。「先生、PSP試験にいきますよ」。PSP試験?確か、腎臓の検査だったような・・・、でもどうやるのかは知らない。すぐ横にいた研修医二年目の先生に、「PSP試薬を静注して、あとは看護婦さんがやってくれるよ」と教えてもらい、病室に向かいました。

患者さんの腕に駆血帯を巻き静脈を穿刺しました。ところが、静脈を穿刺したかどうかがわからないのです。最近は行わない検査のようなので補足しますが、PSP試薬というのは赤い色をしています。目で見ても赤い血の逆流がわからないのです。「あたっていない」と思い、針を抜きました。すると、今度はシリンジが勝手に滑り始めました。今のディスポのシリンジならありえないことなのですが、あのころは、ガラスシリンジを使っていました。シリンジを水平に保持していないと、内筒が動いてしまうので、穿刺の際には内筒も同時に持たなければいけなかったのでした。何とかシリンジを水平にして再び穿刺、でもあたらない。徐々に冷静さを失っていきました。

すると、その看護婦さんの手がシリンジに近づき、患者さんにわからないように身体でシリンジを隠し、無言で、あっという間に静脈内に針を入れてくれたのでした。患者さんは全く気がついていません。見事な早業。私は、赤い試薬を注入し終えると、ナースステーションに戻り、その看護婦さんにお礼を言いました。30半ばの、ショートカットで一見宝塚のスターのようなその看護婦さんは、何も言わずにニコッと微笑んで、ほかの病室に消えてゆきました。

―「教える側」と「教わる側

「少しは勉強して国家試験も合格して医者になったけれど、注射すらまともにできない」と痛感。同時に、なにもできない研修医を、罵倒することもなく、しかも、患者さんに苦痛も与えず、研修医を無言で教育する看護婦さんとそのテクニック。「患者さんのためにも、この看護婦さんのためにも注射がうまくならねば」と感じました。私の経験したなかで、最強の、心に残る、そして最も効果的な指導でした。

その晩から、私の目標は、まず「注射が上達すること」になりました。毎晩、いろいろな種類のガラスシリンジに針をつけ、シリンジの中には水道水を入れて、血管に見立てたゴムの駆血帯に針を刺しました。シリンジの持ち方も研究しました。内筒を押しても針先が動かないように練習しました。

今から考えると、この忘れられない思い出には、「教える側」と「教わる側」という二つの要素があります。少なからず、「これからしっかり勉強してまともな医者になろう」と思っていた私にとって、教える側と教わる側の想い、そのタイミング、がぴたりとはまりました。指導する立場からすると、「いかにしてその気にさせるか」が大事なことですが、教わる側も教える人間の気持ちを汲み取る努力が必要です。

研修中の皆さんは、忙しい指導医に、理不尽に怒られてむかつく事もあるかもしれない。でも、教えることはパワーが必要なのですから、なぜ教えようとしてくれているのか、ちょっと考えてみると、むかつき具合もきっと変わりますよ。

ドーハのアジア大会が終わった

2007年1月~カタール、ドーハ・第15回アジア競技大会

―金メダルを逃す瞬間

カタールのドーハで開催されていた第15回アジア競技大会が終わりました。日本選手団が獲得した金メダルは50個で、中国の165個、韓国の58個についで3位。目標であったメダル数は獲得したものの、柔道が不振だったことや団体球技で金メダルを獲得したのが女子ソフトボールだけだったことなど、北京オリンピックに向けた課題も残しました。

私がチームドクターとして帯同した野球チームは、「勝てば金メダル」という台湾との最終戦に逆転サヨナラ負けを喫し、残念ながら銀メダルでした。

全員がプロのオールスターチームの台湾に1点リードして迎えた9回裏、マウンド上には横浜ベイスターズに入団が決まっている日産自動車の高崎投手、スタンドには前日で試合を終え応援に来てくれた冨田選手や水鳥選手など体操の連中の姿もありました。野球が大好きな、「アテネオリンピック栄光の架け橋の金メダリスト」の富田選手、選手村で野球の連中と親交を深め、「台湾戦には応援にいくから」の約束どおり、スタンドから応援してくれていました。

ランナー2、3塁、こん身の力をこめて投じた高崎選手のストレートは無情にもレフト前にかじき返され二人目のランナーもホームを駆け抜け、熱戦が終わりました。マウンド上で泣き崩れる高崎健太郎、それを慰める選手たち、初回から降り続いていた雨はさらに激しくなってうなだれる選手たちに降り注ぎ、わたしもベンチで呆然とそれらを見つめていました。

「この風景、この感触、まったく同じだなあ」。そうです、もう6年も前になるシドニーオリンピック、延長で宿敵アメリカにサヨナラ負けを喫した女子ソフトボールの決勝戦を思い出していました。雨の中舞い上がったフライはレフトの小関選手のグラブから落ちました。泣き崩れるマウンド上の高山樹里、私は今回と同じように1塁側のベンチから呆然とそれを眺めていた。本来の力では劣っているかもしれない相手と互角以上に競い合い、でも手に入りかけた金メダルがするりと落ちてしまった瞬間、泣き崩れる選手たち、降りしきる雨、ベンチでそれを見つめる監督の姿、呆然とそれらを見ている私、すべてが同じでした。

今回のアジア大会、野球の全日本チームは全員アマチュアで大会に臨みました。社会人と大学生のチーム、みんながお互いに声を掛け合い、練習中も大きな声で励ましあい、本当にいいチーム。かたや台湾、韓国はメジャーリーガーも入ったプロ野球オールスターチーム、春に行われたWBC(ワールドクラッシックベースボール)の時とほとんど同じメンバーでした。

韓国戦では今年の韓国プロ野球MVP投手をノックアウトしマウンドから引き摺り下ろし、最後はセーブ王からサヨナラ3ラン、金メダルなら兵役免除のはずだった韓国選手たちの夢を打ち砕きました。台湾戦ももう少しのところだったのに・・・。

結果がすべてのスポーツの世界、「アマチュアが台湾、韓国のプロ野球オールスター軍団と戦っていい試合をした」ではなくて、「いい試合をして、しかも撃破して金メダルを取った」という結果を残したかった。本当に残念でした。同時に、単なるチームドクターでありながらこの場にいられる幸せも、また感じさせてもらいました。

―セパタクローで気分転換

いままでは、オリンピックやなどに行ってもほかの競技を応援に行くということはなかったのですが、今回は野球の連中を連れて「セパタクロー」の応援に行ってきました。張り詰めた気持の中、日の丸を背負って戦う2週間、選手村での共同生活でプライバシーもない。選手たちはものすごいストレスにさらされます。時として、「心のコンディショニング」も必要になります。こんなとき、選手村の外に選手たちを連れ出す引率役はたいがいドクターの仕事。10年前のアトランタオリンピックのときも、気分転換のために町のショーパブに選手たちを連れて行きました。もちろん、監督から「先生、よろしく頼む」と言われてのことですが。

今回のカタール・ドーハではそんなところはありませんから、昼間さわやかにセパタクローの応援です。セパタクローは籐で編んだボール(現在はプラスチック)を使って行う「足を使うバレーボール」のような競技。マレー語のセパ(蹴る)とタイ語のタクロー(ボール)でセパタクローと言うんだそうです。オリンピック競技ではないセパタクローの選手たちにとってこの4年に一度のアジア大会は最高の舞台となります。

セパタクローの第一人者である寺本進選手とは5年前に知り合いました。1994年に広島で行われたアジア大会から日本でも名前が知られるようになったセパタクローですが、そのとき広島の高校のサッカー選手だった寺本選手は広島アジア大会をきっかけにセパタクローに打ち込み始め、現在も貧乏な生活をしながら日本でのセパタクローの普及に一生懸命です。彼の頭は長い競技生活でボコボコに変形し、いつでも誰にでもセパタクローのことを話せるように、必ずボールを持ち歩いています。

初めて生で見たセパタクロー、そのスピード、迫力に驚きました。野球の連中と声をからして応援しました。これからもセパタクローや寺本を応援したいと思いました。

やっぱり、今回のアジア大会も、とっても楽しかったなあ。