「コーヒーブレイク」カテゴリーアーカイブ

久しぶりのバスケ

久しぶりに書きます。

よく見ると2週間も書いてなかったのね。

確かにこの2週間、かなり忙しかったからなあ。

でも言い訳はダメダメ、今日からこまめに書きますからお許しを。

今日は2週間ぶりにバスケットの練習に行ってきました。

2月に腰の手術をした後、しばらくお休みしていたけれど、8月から徐々にバスケットも再開、もう腰も不安はなく、元気にコートを走り回ることができました。

ゲームでも7分ゲーム3セットで合計12点とまあまあ。でも、やっぱり走る体力がイマイチではあったなあ。

バスケ仲間は年齢も職業も様々、もちろん大学生もいます。だから楽しい。

もちろん練習のあとは生ビールをぐびぐび。これがまた楽しい。

みんなの話を聞いて人生勉強。自分の娘より若い連中の話を聞いてさらに勉強。

わが娘たちは相手にしてくれないけれど、バスケ仲間は相手にしてくれるからね。

感謝感謝!

そして今日の飲み会の結論は「やっぱり楽しくバスケットをやらなきゃね」「いいかげんさも大事だね」

ということで、今日も楽しいバスケット&飲み会だったのでした。

練習後のビールはやっぱりうまいねえ、若者の中におじさんが一人いるけど違和感はないでしょ!一番左に顔半分しか映っていない女性がいますが、あまりに美人過ぎるので半分しかお見せできません。全部見たい人はバスケしに来てね!

河野一郎理事長就任「未来を育てよう、スポーツの力で」

10月7日から東京で開催される体操の世界選手権、大会前の調整合宿、公式練習のために10月1日から全日本体操チームに帯同しています。

朝から晩まで練習会場などなどを飛び回っていて、なかなかブログを更新する時間がありませんでした。

そんな中、独立行政法人日本スポーツ振興センター(NAASH)の理事長に新しく就任した河野一郎先生の就任あいさつが10月3日にあり、体操の練習会場のすぐ近くだったので出席してきました。

私が勤務する国立スポーツ科学センター(JISS)はNAASHの一組織なので、私も正確にはNAASHの職員ということになります。NAASHは日本の国際競技力向上を目指したJISSのほかに、国立競技場などのスポーツ施設の運営やスポーツ振興くじtotoによるスポーツ振興助成事業なども行っています

河野一郎理事長はもともと内科医で、日本のスポーツ医学の中で先駆けてスポーツ現場とのつながりを作った先生です。

昔からとてもお世話になり、たくさんのことを教えていただきました。日本アンチドーピング機構(JADA)の立ち上げの前に、オーストラリアのアンチドーピング機構の視察でご一緒させていただいたこともあります。

飲みながら話させていただいても、スポーツの素晴らしさに魅せられ、スポーツの力で世の中を変えようという思いは私と全く同じ。

就任あいさつの中で河野理事長はスポーツ基本法が制定された中でますます重くなった我々NAASHの役割について話されました。そして、もっと企画能力、発信能力を組織として持つべき、と語りました。

「未来を育てよう、スポーツの力で」

これがわれわれNAASHのスローガンです。

スポーツの力で未来を育てるために何をすべきか、国から言われたことをやるだけの組織から脱却し、自分たちで考え動く組織に変わる大きなチャンスです。

がんばるぞ、という気持ちとともに、責任の重大さもひしひしと感じたのでした。

スポーツ仲裁シンポジウムと馳浩先生

レスリングの世界選手権の開催されたイスタンブールから帰国して1週間、久しぶりに書きます。

海外帯同で日本を不在にすると、その間にたくさんの仕事がたまっていていつも大忙しです。さらに時差ボケ状態でやらなければいけないから効率も悪い、ようやく落ち着いてきました。

昨日は六本木ヒルズ49階で「第8回スポーツ仲裁シンポジウム」が開催され、参加してきました。

スポーツ法の現代的課題と副題がついた今回のシンポジウム、スポーツ団体のガバナンス、アンチ・ドーピングなど、スポーツ基本法成立に伴い何が変わるのか、何をしなければいけないのか、という話題でした。

奥村展三文部科学副大臣と世界アンチドーピング防止機構(WADA)の事務総長デヴィット・ハウマン氏の基調講演に引き続き、パネルディスカッションが行われました。

スポーツに関する紛争を調停する期間がスポーツ仲裁機構です。1994年に設立されたスポーツ仲裁裁判所(CAS)がスイスのローザンヌにありますが、いままでに日本人としてシドニーオリンピックの選手選考をめぐり千葉すず選手が申し立てたり、Jリーグの決定したドーピング規則違反の処分取り消しを求め我那覇和樹選手が申し立てを行っています。

また日本でも2003年に日本スポーツ仲裁機構(JSAA)が設立されその役割を担っています。

新しいスポーツ基本法では素晴らしいスポーツの基本理念やスポーツ権(スポーツを通じて幸福で豊かな生活を営むことが国民の権利である)を定めるとともに、国や地方自治体、スポーツ団体の責務なども盛り込まれたものです。すなわち、今まで以上にスポーツ関係団体は社会的責任を負うことになり、それに伴って「ガバナンス」の強化が必要となるわけです。「ガバナンス」とは直訳すると「統治」ということになりますが、「自ら健全に運営したり問題を解決する能力」とでもいいかえればよいでしょうか。しっかりした組織運営や対応能力が大事ということです。

超満員の会場には自民党の衆議院議員の馳浩先生もお見えになり、とても存在感がありました。

質疑応答で馳先生が話題にしたのは「応諾義務」のこと。

紛争が起きた時に誰かが「仲裁」するには、まずはお互いが審議に応じることが必要です。すなわち、誰かが不服を申し立てても、訴えられた側が拒否した場合には調停も仲裁もされないのです。

ですから、スポーツ団体には「応諾義務」を課すべきというのが馳先生のご意見。もちろん私も同意見。

今回のスポーツ基本法成立にも大変なご尽力をされた馳先生、自ら体を張った人の発言には重みがある、上っ面の知識だけの当たり障りのない発言とは全然違うなあ、サッスガー、と強く感じたのでした。

馳先生とは昨年ロシアで開催されたレスリング世界選手権でご一緒しました。さわやかで正義感があって私は大好き。たしか、昨年一緒にとっていただいた写真があるはずだから、見つけたらここにものっけちゃおう。

ということで、見つかりました。

今年もフリーの団長としてイスタンブールでの世界選手権にいらっしゃる予定でしたが国会のためにご一緒できなくて残念。そのうちゆっくりスポーツや日本の未来を語り合いたいなあ。

シンポジウムが終わったあと六本木ヒルズ49階から外を見るととてもいい眺め、これだけ高いとこんなに遠くまで見えるんだね。

イスタンブールの朝焼けもきれいだったけれど、東京の景色も捨てたものじゃあないなあ、と感じながら会場をあとにしたのでした。

写真家・保高幸子のプロ根性

2日前のことです。隣りにいたレスラードクターの中嶋先生に言いました。

「ちょうどいま決勝の前でマットが空いているから僕の写真撮ってよ」

ホームページの写真を新しくしようとジャージ姿の写真をどこかで撮ろうと思っていたのです。

レスラードクター中嶋の前でポーズをとる私。

「なかなかうまく撮れませんねえ、あっ、あそこに保高さんがいるから撮ってもらったらどうですか」と中嶋先生。

保高さんは先日も紹介したレスリング協会の広報の手伝いもしてくれているカメラマン、ときどきテレビにも登場する有名人です。

決勝の前でまだ時間があったので保高さんにお願いしました。

「かっこいいジャージ姿をとればいいわけね」こころよく引き受けてくれた保高さん。

でもやっぱり彼女はプロのカメラマンでした。

このおじさんのジャージ姿をかっこよく撮るなんて至難の業、いつも選手たちの美しい肉体ばかり目にしているからなおさらでしょう。

気軽にお願いしたつもりが、途中から彼女の「プロ根性」に火がついてしまいました。いくら僕相手でもいいかげんな写真など撮れなかったのです。スタンドから会場のマットの横、最後は通路と背景を変えて20分近く、見事ないい男??が出来上がったのでした。

じゃじゃーん

どうです。何が違うのかわからないけれど絶対にシロートにはとれない写真、まさしくプロの技ですね。

どんな仕事でもそうだけれど、プロが働く姿ってのはかっこいい。

保高さんも、撮影しているうちにだんだん目が変わってきてとてもかっこよかった。

気軽にお願いしたつもりが、本当のプロにただで撮ってもらっちゃいました。

申し訳なくて、「じゃあこのお礼は僕のカラダで」って冗談で言ったら、「遠慮しときます」だってさ。

そりゃそうだな。

カラダで払えるくらいのいい男にならなくっちゃ、とあらためて思った私でした。

白酒なんども一気飲みで国際親善

北京での東アジア大会のメディカルミーティングが終わりいま空港にいます。

まあ会議はいつも通り。大会のメディカルサポートの体制やアンチドーピングの体制を確認し、つつがなく終了しました。

この人がメディカルのチェアマンのDr Zan

中国のドクターにしてはいつもスマートに会議をまとめてくれます。最近はいろいろな会で年に数回は顔を合わせます。だから最近仲良し。

昼食会では例のあの超強力な中国の白酒を小さなグラスで何度も一気飲みさせられ、これも友情のあかしと何度も飲み干した私。

おかげでまだ頭がくらくら。

国際親善も楽じゃないですね。でも会議では結構言いたいことも言ったから、付き合わなきゃわるいからね。尖閣問題解決の一歩になるかもしれないし。

よく考えると、今の時代メールのやり取りだけですむかもしれない会議内容。でも、やっぱりこうやって実際に会って握手してゲラゲラ笑うことが大事。白酒の一気飲みもとても意味があること。

モンゴルの友達は今回初めて参加した若い女性ドクターの横に座っている私に、「彼女をよろしくね。でも美人だから「寄り切り、押し出し」は禁止だよ」とウイットに富んだコメント。なかなかやるねえ。

といことで、一仕事終えてこれから日本に帰ります。

オリンピック以来の北京

ユニバーシアードの深圳から戻って早10日たちました。時差ぼけはないもののやはりまだなんとなく疲れが抜けていない私ですが、今日は北京に来ています。

2013年に中国・天津で開催される東アジア大会の医事委員会に出席するためです。

東アジア大会は、まだあまりなじみがありませんが、日本、中国、韓国、北朝鮮、香港、マカオ、モンゴル、台湾、グアムという9つも国と地域が参加し4年に一度開催される総合競技大会です。前回は2009年に香港で開催されました。

医事委員会では大会期間中の医事体制やアンチドーピング体制などが確認されます。

午後の便で日本を発ち翌日にの夜には日本に戻るという一泊2日の旅。

良く晴れた飛行機からはきれいな富士山が見えました。よく見ると夕日を映して富士山が赤く染まっています。

これがうわさの「赤富士」か。

飛行機の中でいろんな思い出がよみがえってきました。

30年前、初めての海外はやはり中国。大阪から上海まで乗りました。窓から中国の大地を見ながら「これが外国か」と感慨にふけったことを思い出しました。その時流れていた音楽も耳に残っています。

あのころはすべて初めてで、すべて新鮮だったからね。

それに比べて、最近はなんと鈍いことか。年をとるとすべてに鈍くなりますね。それじゃだめだぞ、と反省の思い。

北京は2008年のオリンピック以来、もう3年もたったのかと再び感慨につかります。

3年前、私は野球チーム星野ジャパンのチームドクターとして北京にいました。

なかなか思うように戦うことができず、もやもやしたオリンピック。ダルビッシュや川崎宗則がバリカンで坊主になったことも思い出しました。でもいい男たちは坊主でもかっこよかった。バックネット裏でスコアラーの三宅さんといろいろな話をしたなあ。ソフトボールの決勝戦は野球のみんなでテレビで見ました。

ああ、本当にあっという間に3年たっちゃった。野球もリベンジしたいけどもうオリンピック種目ではなくなってしまいました。さらに、あの感動したソフトボールもロンドンンでは見ることができません。

ぜひ2020年東京オリンピックを決めて、野球とソフトボールの復活を、なんて考えていたら、睡魔が襲ってきました。北京オリンピックの思い出はそのうちまたゆっくり書きますね。

東大第二内科の同窓会

土曜日は久しぶりに東京大学第二内科の同窓会にいってきました。

現在は、専門科ごとの医局にかわり、明治時代ドイツ医学とともに日本に導入された「ナンバー内科」は消えつつあります。そのうち「東大第二内科」という言葉もなくなるのだろうけれど、やっぱり私の医者としての原点。

30分ほど早く着いたので、医学部の本館や三四郎池を散策。あの頃は忙しすぎて、三四郎池をゆっくり散策する時間なんてなかったなあ。

まずは、同窓で現在徳島大学の循環器内科教授の佐田正隆先生のご講演。柔道部でもあった佐田先生、最先端の研究内容とともに、熱い想いが伝わってくる講演でした。その中で、「子供の肥満が増加している」という話も。これは、私もかかわってしっかりやらなければいけない問題。子供たちのスポーツ離れを食い止めなければいけません。

次いで、懇親会。久しぶりにお会いする先輩や後輩がたくさん。もう20年以上前に私の仲人もしてくださった、杉本恒明先生もとてもお元気でした。

懇親会のあと池之端門から出て今度は久しぶりに夜の不忍池を散策。池に向かったベンチには愛を語らうカップルの姿もちらほら。あやしい人に思われないようにベンチに座ってここを通ったころに思いを馳せます。

池の向こうには、東京スカイツリーが見えますが、そのほかは昔のまま。

中国帰りで疲れてるから今日は早く帰ろう、と一瞬思ったけれども、やはりそういうわけにはいかず、久しぶりに湯島のスコッチバー「ノア」へ。マスターも相変わらず元気。しかも店には美女がたくさん。結局ぐでんぐでんに・・・

やはり、「本郷・湯島おそるべし」の夜でした。

今日も松本の街を散策、ああ中身の濃かった大学時代

信州・松本、7時に起床し、ニュースでなでしこジャパン世界一のニュース。あきらめずに頑張ることを体でしめしたなでしこたち。どれだけの人たちが勇気をもらったのだろう。スゴイスゴイ。

さて、今日は写真いっぱいの超大作。自転車を借りて、学生時代を過ごした松本の街を回りました。

まずは、駅前からスタート。民芸レストラン「盛よし」の2階に私がよく通い、ウエイターのアルバイトもやった、バロックが流れてチーズケーキがうまい喫茶店「無伴奏」がありました。マスターもなくなり、店もなくなってしまったけれど、やっぱりここからスタート、原点。

伊勢町を通って中町へ、カレーの「デリー」は昔のまま。その横を通って女鳥羽川沿いの喫茶店「まるも」へ。

ここは松本で初めて女性と一緒に入った喫茶店。モーニングセット500円を注文して、しばし哀愁のカサブランカ。そういえば映画「カサブランカ」を観た縄手の映画館はもうなくなってました。

みどり町には、国家試験の前、そのころの彼女と毎日のように通って一緒に勉強した、というかおバカな私に彼女がいつも教えてくれた喫茶店「アミ」があったけれど、そこは違う居酒屋に。たしか火事で焼けてなくなっちゃったと聞いた。いずれにせよ、私を医者にしてくれた彼女に感謝、感謝。

上土を通って、裏町から日ノ出町へ。生まれて初めて「ネギトロ巻」を食べた「三重鮨」も健在。そして、あの頃ちょうどできたカタクラモールのわきを通って、初めて一人暮らしをした里山辺のアパートを目指します。そういえば横切った「やまびこ道路」は昔は「国体道路」って呼んでたなあ。

あーあった、あった。30年以上経つのに、そのアパートはまだ健在でした。いろいろなことがあったなあ。昨日のことのように、あの建物の中で経験した様々な思い出がよみがえりました。

次いで、あがたの森公園に向かい「旧制松本高校」跡地へ。おひさまの陽子のお兄ちゃんも松高に通ってた。「旧制高等学校記念館」を見学して、「われらの青春ここにありき」の石碑も健在。北杜夫の「どくとるマンボウ青春期」を読んで憧れたバンカラ学生生活。私が信州大学に入学したころは、ここにはまだ「思誠寮」が残っていて、入寮している友人もいました。ちなみに、信州大学医学部バスケットボール部ではコンパのたびに、松高の寮歌「春寂寥」を歌いました。

よし、次は学生時代最後に住んでいたアパートはどうなっているかな、と、開智小学校の裏を目指します。近くに「奈川」って安くてうまいそばやがあったけれど、なくなってた。でもその近くに昔は女鳥羽川沿いにあった蕎麦屋の「もとき」が。でも、僕は「女鳥羽そば」のほうが好き。

「本間のうなぎや」やあのころ可愛いオネエチャンがいて学生に人気があった「丸山歯科医院」も健在、そして、最後の3年間を過ごした「木下コーポ」も健在でした。あの頃立てたばかりの建物で、管理人を兼ねるということで家賃を安くしてもらっていたけれど、管理人らしきことは何もしなかったなあ。ほんとにみんなにお世話になった。再び、旧開智学校の横を通って、やっぱり松本城を一枚。

縄手通りを通って再び中町へ。ここには松本にくると必ず寄る版画ギャラリー「無伴奏」があります。昔はあの喫茶店の中で版画の展示・販売もしていたのだけれど、マスターがなくなってからママさんが中町に店を出しました。久しぶりの再会。お元気。でも7月いっぱいで店を閉めるんだとか。よかった、7月中に来て。30年前初めて買った版画は、秋山巌さんのふくろう「先生と生徒」。1万5千円は学生にとっては大金だったけれど、今でも家のリビングに大切に飾ってあります。ママさん、お元気でね。

そして最後は駅前のとんかつや「たくま」へ。ここは卒業試験の最中に毎週通った店。医学部の卒業試験は2か月近く続き、週に2回のペースでテストがあります。実力のなかった私は「試験にカツ」というゲンを担いで試験前に必ずここでカツを食べました。そうかー、そう考えると何とか試験に通って卒業できて医者になれたのはこの店のおかげでもあるな。感謝、感謝。

店に入って、カウンターに座って「カツカレー」を注文。店のおやじさんは年はとったけれど30年前と同じ顔。味もボリュームも同じでうれしい。

てなわけで、あっという間の4時間でした。やっぱり、大学時代の6年間は本当に中身の濃い、ぎっしり詰まった6年間であったことを実感しました。そして、近くに見える懐かしい山々を眺めながら、「かならず信州に戻ってくるぞー」という思いを強くして、新宿行きのあずさ号に乗ったのでした。

久しぶりの信州・松本

今日は、久しぶりに松本に来ています。

医学部の学生だった青春時代6年を過ごし、たくさんの人生勉強をさせていただいた松本です。

元総務省の防災課長、現在自民党長野県第二選挙区支部長で神奈川大学教授の務台俊介さんのお招きを受け、USTREAMむたい俊介アワーに出演してきました。

スポーツの価値、地域再生とスポーツ、スポーツと健康、そしてスポーツを支える仕組みなどについて務台さんと熱く語ってきました。とても楽しいひと時でした。http://ustre.am/jyRg

対談の後、松本の街をぶらぶらしました。

2年ほど過ごした今町の下宿、丸山フルーツの甘栗工場の二階は27年前のままでした。そのあと西堀から縄手通りを通って裏町へ。

裏町はだいぶ変わっていました。学生時代面倒を見てもらったいくつかの店も、みんな無くなってました。そりゃあそうですよね。

ドッペリ横丁のトリスバー「銀馬車」もすでになく、「パンドラ」は残っていたけれど店は閉まっていました。

しかし、時々通ったジャズ喫茶の「エオンタ」は健在、店に入ると存在感のある大きなスピーカーも昔のままでした。

ジャズの流れる中、ベルギーのビール「ドユーベル」を飲みながら学生時代のいろいろな思い出がよみがえってきました。

エオンタを出て今度は伊勢町から駅前へ。「ずくなし」も「草枕」もまだあったけれど店はしまってた。

そして最後は天神へ。学生時代、ご夫婦に面倒を見てもらった「塚本」はやっぱりもうありませんでした。

さわやかな空気、目の前に迫る山々、手が届きそうな雲やきれいな星、やっぱりいつかは信州に戻ってきたいなあ、と感じながらホテルに到着。

明日は自転車でも借りて、懐かしい場所をもっと回ってみようかな。

山種美術館、東山魁夷を見ながら「本当の豊かさとは何か」あらためて思う

信州から上京してきた母親を連れて、広尾の山種美術館に行ってきました。

「美しき日本の原風景ー川合玉堂・奥田元宋・東山魁夷ー」、かつては存在した日本各地の故郷の姿、次世代に伝えていきたい日本の心の風景、忘れちゃだめだよ、という展覧会。

失われつつある日本の原風景を見ながら、やはり、今回の原発事故や飯館村のことなどに思いをは馳せずにはいられませんでした。

「風景自体が人間の心を語っている」という言葉を残した東山魁夷、美しい絵とともに一緒に展示されていた言葉にも心を奪われました。

「豊かな国の条件は、澄んだ大気、清らかな水、美しい山や野」

「人間が自然を大切にしなかったとすれば、それは同時に人間が人間を大切にしなくなったこを意味する」

「人間の幸福、生活の豊かさが、いま、真剣に問い直される時が来ている」

これら、30年以上前に発せられた言葉たちは、まさに大震災・原発事故のあと、我々が今感じている言葉です。

豊かな生活が当たり前なものではないことに気づき、真の豊かさ、真の幸せとは何なのか、今、みんなが考えています。

そんなことを思いながら、美しい絵、日本の原風景にしばし見入ってしまったのでした。